更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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更級日記の国境誤認は下総の太日川から始まる

作者は太日川から国境を数え間違えた



 更級日記の帰京の旅では多くの国境を越えている。上総と下総、下総と武蔵、武蔵と相模という具合である。最初の国境である村田川は地元でもあり間違っていないが、次の下総と武蔵の国境を太日(ふとゐ)川であると誤解し、そこから混乱が起こった。実際の隅田川を渡ったときはそこが国境だとは思わず通り過ぎ、数十年後に記憶をたどったとき、都人の共通教養である伊勢物語に登場する隅田川に当たる川がなく、首をひねった挙句「在五中将の隅田川は相武国境で渡った、あすだ川だったんだ」と自分を納得させたのである。


 下総と武蔵の国境は周知のように、隅田川であり、江戸時代、寛永年間、三代将軍家光のとき、現在の江戸川(昔の太日川)に変更され現代に至っている。しかし更級作者が下総、武蔵国境を現在の江戸川(当時の太日川)であると誤解したのも無理はないのである。昔の国境は日本国内に限らず、多くは自然国境、つまり川や海、高い山で形成され、それを越えるとガラっと景観が変わった。当時の太日川は現在の渡良瀬川の水を流す流路であり、東国一の大河であった。そして緑で覆われた丘陵からなる下総の景観が太日川を渡ったとたん一面の葦野ヶ原に変わり荒涼とした景観に変わる。まさに太日川を国境と考えて何の無理もなかった。それは現代でも同じで、松太夫の個人的経験でも同感である。1972年、初めて千葉県にやってきたとき、JR総武線の窓から江戸川の鉄橋を越えたところで、自然に千葉県に入ったことを実感した。びっしりと低層住宅が立ち並ぶ墨田区、江東区、江戸川区の0m地帯を過ぎ、江戸川に差し掛かると、緑に輝く下総丘陵が長く広がる千葉県があった。では、どうして昔の人は江戸川(太日川)を総武国境としなかったのか?

 それは、同じような景観の変化は武蔵から隅田川を越え東京低地に入ったときにも起こるからである。要するに平安時代以前、東京低地(地図に水色で示す)の大部分は湿地の多い不毛の地で、一応隅田川が国境であったが、このデルタ地帯全体が太い国境線を形成していたのである。

 隅田川を国境と意識することなく通り過ぎたら次の大きな川は石瀬河(多摩川)である。この河は現在の東京、神奈川の県境であるが、当時は、この流域は荏原郡として一体の地域であり河の両岸の景観は似たようなもので、おそらく10月過ぎには徒渡りできる場所もあっただろう。そんなわけでこの川は記憶に残らなかった。

 次の相武国境は時代によりかなり変動があったようである。更級一行が通ったときは、低い丘陵の尾根が国境であった(と、一応考えられている)。ところが当時の山は一面の草木に覆われ、もちろん標識などもなく、そこを歩いても、どこで国境を越えたなど考える余裕もなかった。実際には丘陵を降り、ススキや葦の生い茂る野原を踏分け、やっと開けた海岸に出て相模に着いたと実感できたのである。そこで渡った川は文字通り境川(国境の川)であった。境川という名はいつ頃始まったのだろうか?更級作者が言うように「あすだ川」と呼ばれたことがあったのだろうか?作者がそれを当時のメモに基づいて書いたとしたら、これは重要な同時代証言である。しかしメモが、それこそ弘明寺で見た大岡川のことに関するものをごっちゃにしていたとしたら、間違った結論になる。このあたりは、何とも断言できかねる。

※地図は『利根川と淀川』(小出博、中公新書1975)より。千年前の関東の水系を一部改変、わかりやすくするため川幅を誇張して描いてある。

 

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