更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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海道記、 鎌倉時代に東海道を京都から鎌倉に下った紀行文

海道記、 鎌倉時代に東海道を京都から鎌倉に下った紀行文
記事コード: doc_46
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海道記の概略


  作者は過去には鴨長明、源光行などの名が挙げられたが、現在ではいずれも否定され不詳である。

旅の目的:承久の乱(1221年)という動乱によって一時大混乱に陥った社会が、乱の鎮定後、目覚ましく安定してゆく様を見て、それをもたらした武家の本拠地、鎌倉を一度見てみたいという思いにかられ旅立った。
旅の経路:江戸時代の東海道に近いコースをたどる。当時は東山道を経由して尾張に入るのが普通だったが、この旅は一人旅で身軽であった為か鈴鹿峠を越え、海路で尾張に入った。ただ駿河では箱根越えをせず足柄経由で相模に至っている。これは承久の乱に連座し処刑された後鳥羽上皇側近の終焉の地を訪れるためであったと思われる。鎌倉では十日程観光した後、帰洛した。

作者の人物像:50歳前後の相当な知識人。一時は宮仕えもしていたと想像されるが、後鳥羽上皇政権下では不遇であり、洛西、白川で老母と共に隠棲していた。この旅は鎌倉の知己からの招きで思い立ったものだが、鎌倉での仕官という、かすかな期待があったようにも感じられる。しかし、残念なことに、その肝心な知己が入れ違いで上京し面会できなかった。夢は泡と消えたのである。作者はせめて旅行記を残し自分が生きた証しとしたのではないだろうか。一読すると『海道記』は単なる覚書的紀行文ではない。しっかりとした構成、和漢典籍の故事、表現をふんだんに散りばめた文学作品になっている。
収録の方法:原文は縦書きだが横書きに変更した。漢文の読み下し的文体で書かれているが原文のカタカナは読み難いので、ひらがなに変更した。パソコンで入力できない漢字は同じ意味の漢字に改めたり、ひらがなで表記した。

出典は新日本古典文学体系、中世日記紀行集、『海道記』p.70、(岩波書店)

読者の便宜のため見出しと西暦(グレゴリオ暦)を挿入した。
以下『海道記』テキスト

[まえがき]

  白河の渡、中山の麓に閑素幽栖の侘士(わびびと)あり。性器(しょうき)に底なければ、能を拾ひ芸を容るヽに足べからず。身運は本より薄ければ、報を恥ぢ命をば顧て恨を重るに処なく、徒に貧泉(たんせん)の蝦蟇と成て、身を蘋(うきくさ)に寄せて力なき音(ね)をのみ啼き、空く窮谷の底木として、意(こころ)の樹花たえたり。惜からぬ命のさすがに惜ければ、投身の淵は胸の底に浅し。存しかひなき心は憖(なまじい)に存したれば、断腸のうばら(クサカンムリに棘)は愁の中にしげる。春は蕨を折て臨める飢を支ふ、伯夷が賢にあらざれば人もとがめず。秋は果(このみ)を拾て貧き病を癒す、華氏が薬もいまだ飢たるをば治せず。九夏三伏の汗は拭てくるしからず、手の中に扇あれば涼を招くに最やすし。玄冬素雪の嵐は凌ぐにあたはず、身の上に衣無ければ寒を防ぐにすべなし。窓の蛍も集ざれば目は暗が如し、何を見てか志を養ん。樽の酒も酌事を得ざれば心は常に醒たり、如何か憂を忘んや。

  然間、逝水早く流て、生涯は崩れなんとす。留んとすれども留まらず、五旬齢の流車坂にくだる。朝に馳暮に馳す。日月廻の駿駒隙を過ぐ。鏡の影に対(むかひ)居て知ぬ翁に恥ぢ、鑷子(けぬき)を取て白糸にあはれむ。依之、頭上には頻に駭(おどろ)かす老を告る鶴、鬚の辺には早く落ぬ霜を厭ふ志忽に催して、僧を学び仏に帰する念ひ漸におこす。名利は身にすてつ、稠林に花散りなば覚樹の果は熟するを期(ご)すべし。薜蘿(へきら)は肩に結べり、法衣色そみなば衣浦の珠は悟る事を得つべし。旦暮の露の身は山のかげ草措所あれ共、朝の霞は望絶て天を仰ぐに空し。世を厭ふ道より出たれども、仏を念ずる思は遺怠と怠る。四聖の無為を契しも、一聖猶頭陀の路にとヾまりき。単己が有為を厭ふ、貧己弥(いよい)よ坐禅の窓に忩(いそが)はし。然而(しかれども)、曽晳が酒も人を酔せて由なし、子罕が賄(たから)は心に貯て身の楽とせり。鵞眼なけれども天命の路杖つきて歩をたすく。麞牙闕たれども地恩の水に口すヽぎて渇をうるをす。空腹一杯の粥、飢て啜れば余の味あり。薄紙百綴の衿、寒に服たれば肌を温るにたれり。檜笠を被て装とす出家の身、藁履を躡で駕とす遁世の道。

  抑 相模国鎌倉郡は、下界の鹿渋苑、天朝の築塩州也。武将の林をなす、万栄の花万にひらけ、勇士の道に昌へたり、百歩の柳百たび中る。弓は暁の月に似たり、一張そばたちて胸を照し、劔は秋の霜の如し、三尺たれて腰すヾし。勝闘の一陣には、爪を楯にして、寇を此に伏す。猛豪の三兵は、手にしたがへて互に雄称す。干戈威厳して、梟鳥敢てかけらず。誅戮辜(つみ)きびしくして、虎狼永く絶たり。此故に、一朝の春の梢は、東風にあふがれて恵をまし、四海の潮の音は、東日に照されて波を澄せり。貴賤臣妾の往還する、多駅の道隣をしめ、朝儀国務の理乱は、万緒の機かたがたに織なす。羊質、耳の外に聞を成て多歳をわたれり、舌の端唇して幾日をか送る哉。心船佯の為に漕ぐ、いまだ海道万里の波に棹さヽず、意馬荒猿にはす。関山千程の雲に鞭うたず。今便(すなわち)芳縁に乗て俄に独身の遠行を企つ。


[海道記、旅のあらまし]


  貞応二年卯月の上旬、五更に都を出て一朝に旅に立つ。昨は住わびて厭し宿なれど、今は立別れば余波惜く覚て、暫く踟蹰(やすら)へども、鐘の声明行ば、あへずして出ぬ。

粟田口の堀路を南にかいたをりて遇坂山にかヽれば、九重の宝塔は北の方に隠れぬ。松坂を下りに松を燭して過行ば、四宮河の渡は凌震(しののめ)に通ぬ。小関を打越て大津の浦をさして行。関寺の門を左に顧れば、金剛力士忿怒のいかり眼を驚し、勢多の橋を東に渡れば、白浪漲落て流躬のながれ身をひやす。湖上に船を望めば心澳にのり、野底に馬をいさめて手鞭をかなづ。

  漸に行程に都も遥に隔りぬ。前途林かすかなり、纔(わづか)に薺(なずな)こずゑにみる、後路山さかりて、たヾ白雲跡を埋む。既にして斜陽景晩て暗雨しきりに笠にかヽる。袖をしぼりて始て旅の哀をしりぬ。其間、山舘に臥て露より出て、暁の望蕭々たり、水沢に宿して風より立つ、夕の懐悠々たり。松あり又松あり、煙は高卑千巌の路を埋み、水に臨みて又水に臨む、波浅深長堤の汀に畳む。浜名橋の橋の下には、思事を誓て志をのべ、清見関の関屋には、あかぬ余波(なごり)をとヾめて歩を運ぶ。富士の高峰に煙を望めば、臘(ろう)雪宿して雲独り咽び、宇津の山路に蔦を尋ぬれば、昔の跡夢にして風の音おどろかす。木々の下には下ごとに翠帳を垂て、行客の苦をいこへ、夜々の泊には泊ごとに薦枕を結て、旅人の睡をたすく。行々て重て行々たり、山水野塘の興壮観をまし、歴々として更に歴々たり、海村林邑の感長命なり。

  此道は、若四道の間逸興の勝たるか、将(はた)又孤身が斗藪の今の旅始なればか。過馴たる旧客猶ながめを等閑にせず、況や一往の新賓なれば感思おさへがたし。感思の中に愁腸の交る事あり。母儀の老て又幼き、都に留て不定の再覲を契をく。無状哉、愚子が為体(ていたらく)、浮雲に身を乗せて旅の天にまよひ、朝露を命にて風の便りにたヾよふ。道を同(おなじく)する者は皆我を知ざる客なり。語を親昵に契ていづちか別れなんとする。長途に疲て十日余。窮屈頻に身をせむ。湯井の浜に至て一時半偃息し、しばらく心をゆるぶ。時に萍実西に沈む、旧里を忍て後会を期し、桂華東に開く、外郷に向て中懐を悩す。仍三十一文字を綴て、千思万憶旅の志を演(のべ)つ。此はこれ、文を用てさきとせず、謌(うた)を以て本とせず、只境に牽れて物の哀を記するのみ也。外見の処に其嘲をゆるせ。


[海道記、旅日記本文]


(貞応2年4月4日発)(グレゴリオ暦1223年5月12日)


  四月四日、暁、都を出。朝より雨に逢て、勢多橋の此方に暫く留て浅増くして行。今日明日ともしらぬ老人を独り思おきてゆけば、

  思おく人にあふみの契あらば今帰こん勢多のなかみち



  橋の渡より雨まさりて、野経の道芝露ことに深し。八町畷を過れば、行人互に身をそばめ、一邑の里を融れば、奇犬頻に形を吠ゆ。今日しも習はぬ旅の空に雨さへいたく降て、いつしか心の中も鶴夜(かきくも)る様に覚て、

  旅衣まだきもなれぬ袖の上にぬるべき物と雨は降きぬ



  田中打過て民宅打過ぎ遥々とゆけば、農夫双立て甾(あらた)をうつ声、行雁の鳴渡が如し。田を打時は双立て、同く鍬をあげて歌をうたひてうつなり。卑女うちむれて前田にえぐつむ、存外(おもは)ぬしづくに袖をぬらす。そともの小川には、河傍楊に風立て鷺の蓑毛うちなびき、竹の編戸の墻根には、卯花さきすさみて山郭公(ほととぎす)忍びなく。かくて三上の嶽を眺めて八州河を渡る。

  いかにして澄(すむ)やす川の水ならむ世わたる斗(ばかり)くるしきやある

  若椙と云所を過て、横田山を通る。此山は白楡の景に露て、緑林の人をしきる処ときこゆれば、益なく覚て忩ぎ過ぐ。

  はや過よ人の人の心も横田山みどりの林かげにかくれて


  夜景に大岳と云処に泊る。年来うちかなわぬ有様に思とりて髪をおろしたれば、いつしか懸る旅臥するも哀にて、彼の盧山草庵の夜雨は、情けある事を楽天の詩に感じ、この大岳の柴の宿の夜雨には、心なき事を貧道が歌に恥づ。

  黒染の衣かたしき旅ねしついつしか家を出るしるしに


(貞応2年4月5日)(グレゴリオ暦1223年5月13日)



 五日、大岳を立て遥かに行ば、内の白川、外の白川と云処を過て鈴鹿山にかヽる。山中よりは伊勢国に移ぬ。重山雲さかしく、越れば則ち千丈の屏風弥(いよいよ)しげく、群樹煙ながし、褰(かかぐれ)ばまた万尋の帷帳ますますあつし。峯には松風片々に調て、嵆康(けいこう)が姿頻に舞、林には葉花稀に残て、蜀人の錦纔にちりぼふ。是のみに非ず、山姫の、夏の衣は梢の翠に染かけ、樹神の音響は谷の鳥に答ふ。羊腸坂きびしくして、駑馬石に足なへぐ。都(すべ)て此山は、一山中に数山を阻て、千巌の嶺眼にさはり、一河の流百瀬に流て、衆客の歩み足をひたせり。山重り江複(かさなれ)ば、当路に有といへども、万里の行程は半にも至らず。

 鈴鹿川故郷(ふるさと)遠く行水にぬれていく瀬の浪を渡らん


薄暮に鈴鹿の関屋にとまる。上弦の月峰にかヽり、虚弓徒に帰雁の路に残る、下流の水谷におつ、奔箭速にして虎に似たる石に中(あた)る。旅駅漸に夜をかさねて、枕を宿縁の草に結び、雲衣暁さむし、席を岩根の蘿(こけ、×つた)にしく。松は君子の徳をたれて天の如く覆へども、竹は吾友の号あれば陰に臥て夜を明す。

 鈴鹿山さして旧里思ねの夢路の末に宮こをぞとふ


(貞応2年4月6日)(グレゴリオ暦1223年5月14日)


 六日、孟嘗君が五馬客にあらざれば、函谷の鶏の後夜を明して立。山中半ば過て漸下れば、巌扉削りなせり、仁者の棲(すみか)しづかにして楽み、澗水ほりながす、智者の砌うごけども豊也。かくて邑里に出て田中の畔を通れば、左に見右に見る、立田眇々たり、或は耕し、或は耕さず、水苗処々。而のみならず、池溝かたがたに決(さぐ)りて、水をおのがひきひきに論じ、畦畝あぜを並べて、苗を我とりどりに芸(うえ)たり。民烟の煙は、父君心体の恩火よりにぎはい、王道の徳は、子民稼稷の土器より開けたり。水竜は本より稲穀を護て、夏の雨をくだし、電光は兼ねてより九穂を孕て、三秋を待つ。東作の業力を励す、西収の税たのもしくみゆ。劉寛が刑をわすれたり、蒲鞭定て蛍と成ぬらん。

苗代の水にうつりて見ゆるかな稲葉の雲の秋の面かげ



 日数ふるまヽに故郷も恋敷、立帰過ぬる跡を見ば、何か山何か水、雲よりに見ゆる物なし。朝に出て暮に入、東西を日光に弁ふと云ども、晩ば泊り明ば立つ、昼夜を露命に論ぜん事はかたし。自ら歩を拾て万歩に運べば、遠近限りありて、往還期しつべし。ただあはれむ、遥都鄙の中路に出て前後の念に労する事を。

故郷を山のいづくに阻(へだ)てきぬ都の空をうづむしら雲



夜陰に市が腋(いちがえ)と云処に泊る。前を見おろせば海さし入て、河伯の民潮には孚れ、後に見仰ば峰峙(そばだ)ちて、山祗の髪風に梳る。磐をうつ夜の波は、千光の火を出だし入海の潮は夜水を打ば、火の散る様にひかる也、かゝなく暁の鼯(むささび)は、孤枕の夢を破る。此処に泊りて心は独り澄ども、明行(あけゆけ)ば友に牽れて打出ぬ。

松がねの岩しく磯の浪枕ふしなれてもや袖にかゝらん



(貞応2年4月7日)(グレゴリオ暦1223年5月15日)


七日、市腋を立ちて津嶋渡と云処舟にて下れば、蘆の若葉青みわたりて、つながぬ駒も立はなれず、菱の浮葉に浪はかくれども、難面き蛙はさわぐけもなし。取こす棹のしずく袖に懸りたれば、

指(さし)て物を思(おもふ)となしにみなれ(水馴れ)ざを(棹)なれぬ波に袖はぬらしつ


渡りはつれば尾張国に移りぬ。片岡には朝陽の景(かげ)うちにさして、焼野の草に鶬 (ひばり)、小篠が原に駒あれて、泥(なづみ)し気色引かへてみゆ。見ば又園の中に桑あり、桑の下に宅(いえ)あり、宅には蓬頭なる女、蚕簀に向て蚕養をいとなみ、園には潦倒(ろうとう)たる翁、鋤を柱(つい)て農業をつとむ。大方禿なる小童部といへども、手を習ふ心なく、たゞ足をひぢりこにする思(おもひ)のみあり。弱(わか)くしてより業をならふ有様、哀にこそ覚ゆれ。実に父兄の教へつゝしまざれども、至孝の志自(おのづか)らあひなる者歟。

山田うつ卯月になれば夏引のいとけなき子も足ひぢにけり



幽月影顕れて、旅店に人定ぬれば、草枕をとめて萱津の宿に泊りぬ。



(貞応2年4月8日)(グレゴリオ暦1223年5月16日)


八日、萱津を立て鳴海浦に来ぬ。熱田宮の御前を過れば、示現利生の垂迹に跪て、一心再拝の謹啓に頭を傾く。暫く鳥居に向て、阿字門を観ずれば、権現の砌、潜にに寂光の都に移る。其土木霜旧(しもふり)て、瓦の上の松風天に吹といえども、霊験日新にして、人中の心華春の如に開く。而のみならず、林梢の枝を垂る、幡蓋を社棟の上に覆ひ、金玉の檐(のき)に璫(こじり)うつ、厳錦を神殿の面に瑩(みが)く。彼和光同塵の縁は、今日結て悦を含むと云ども、八相成道の終は、来際を限るに期なき事を哀む。羊質、未参の後悔に、向前の恨あり、後参の未来に、向方の憑(たのみ)なし。願は今日の拝参を以て、必当生の良縁とせむ。路次の便詣なりと云事なかれ、此機感の相叶ふ時也。光を交ふるは冥を導く誓なり。明神定て其名におへ給はヾ、長夜の明暁は神に憑ある者哉。

光とづる夜の天戸(あまのと)はや明よ朝日恋しき四方の空みん



 此浦を遥に過れば、朝には入塩にて、魚に非ずば游ぐべからず、昼は塩干潟、馬をはやめて忩(いそぎ)行く。酉天は溟海漫々として、雲水蒼々たり。中上には一葉の舟かすかに飛て、白日の空にのぼる。彼侲男の船のうちにしてなどや老にけん。蓬莱嶋は見ずとも、不死の薬は取ずとも、波上の遊興は、一生の歓会、これ延年の術に非哉。

 思せじと心をつねにやる人ぞ名をきく嶋の薬をもとる



猶この干潟を行ば、小蟹どもおのが穴々より出て蠢き遊ぶ。人馬の足に周章て、横に跳り平に走て、己が穴々へ逃入を見れば、足の下にふまれて死ぬべきは、外なる穴へ入り行て命を生き、外におそれなきは、足の下なる穴へ走り来て踏れて死ぬ。憐べし、煩悩は家の犬のみならず、愛着は浜の蟹も深き事を。是を見てはかなく思ふ我等は、賢哉否や。生死の家に着する心は、蟹にもまさりてはかなき者歟。

 誰もいかにみるめ(海松布)あはれによる波の溺ふ浦にまよひきにけり



山重て又重ぬ、河阻て復阻たりぬ。独旧里を別て、遥に新路に赴く。不知何日か故郷に帰らん。影を双て行道づれは多くあれども、志は必しも同からねば、心に違する気色は友を背に似たれども、境にふるヽ物の哀は心なき身にもさすがに覚て、屈原が沢に吟(によび)て、漁父が嘲に恥ぢ、楊妓が路に泣て、騒人の恨をいだきけんも、身の譬にはあらねども、逆旅にして友なき哀には、なにとなく心細きそらに思しられて、

 露の身を置べき山の蔭やなきやすき草葉も嵐吹つヽ



 潮見坂と云処をのぼれば、呉山の長坂にあらずとも、周行の短息はたへず。歩を通して長き道にすヽめば、宮道二村の山中を賖(はるか)に過ぐ。山は何れも山なれども、優興は此山に秀、松は何れも松なれども、木立は此松に作れり。翠を含む風の音に雨をきくといへども、雲に舞鶴の声晴の空をしる、松性々々、汝は千年の貞あれば面替りせじ、再征々々、我は一時の命なれば後見を期し難し。
 今日過ぬ帰らば又よ二村の山ぬ余波の松の下道



 山中に堺川あり。見は河上に浮で独渡れども、影は水底に沈で我と二人り行。かくて参河国に至ぬ。雉鯉鮒が馬場を過てすりの野原を分れば、一両の橋を名けて八橋と云。砂に眠る鴛鴦は夏を翁して去り、水に立る杜若は時を迎て開たり。花は昔の花、色もかはらずさきぬらん、橋も同じ橋なれば、いくたび造かへつらん。相如世を恨しは、肥馬に駄て昇遷に帰る、幽子身を捨る、窮鳥に類して此橋を渡る。八橋よ八橋、くもでに物思ふ人は昔も過ぎきや、橋柱よ橋柱、おのれも朽ちぬるか、空く朽ぬる物は今も又過ぬ。

 住わびて過る三川の八橋を心ゆきても立かへらばや

此橋の上に思事を誓て打渡れば、何となく心も行様に覚て、遥に過れば宮橋と云所あり。敷双のわたし板は朽て跡なし、八本の柱は残て溝にあり。心中に昔を尋て、言の端に今を註す。

 宮橋の残柱に事問ん朽ていく世かたえわたりぬる


 今日の泊を聞けば、前程猶遠といへども、呉の空を望ば、斜脚已に酉金に近づく。日の入程に、矢矯宿におちつきぬ。


(貞応2年4月9日)(グレゴリオ暦1223年5月17日)


 九日、矢矯を立て赤坂の宿を過ぐ。昔此宿の遊君、花齢春こまやかに、蘭質秋かうばしき者あり。皃(かほばせ)を潘安仁が弟妹にかりて、契を参川吏の妻妾に結べり。妾は良人に先(さきだち)て世を早し、良人は妾に後て家を出。しらず利生菩薩の化現して夫を導けるか、又しらず円通大師の発心して妾をすくへるか。互の善知識、大ひなる因縁あり。彼旧室妬が呪詛に、抃(てうち)て舞悪怨かへりて善教の礼をなし、異域朝の軽訕に、鼻酸持鉢忽に智行の徳に飛ぶ。巨唐に名をあげ、本朝に誉を留るは、上人実に貴し。誰かいはん初発心の路に入ひじりなりとは、是即本来の仏の世に出て人を化するに非や。行々(ゆくゆく)昔を談じて、猶々今にあはれむ。

 いかにして現(うつつ)の契(ちぎら)まし夢驚かす君名かりせば


 かくて本野が原を過れば、嬾(ものう)かりし蕨は春の心おいかはりて、人もおらず手をおのれがほどろとひらけ、草わかき萩の枝は秋の色疎けれども、分行駒は鹿の毛にみゆ。時に日鳥山に隠て、月星躔(てん)に露はなれば,明暁をはやめて豊河の宿に泊りぬ。深夜に立出て見れば、此河は流広く水深して、誠に豊なる渡也。川の石瀬に落る波の音、月の光に越たり。河辺に過る風の響は、夜の色白く、まだみぬひなの栖には、月より外にながめなれたる者なし。

 知人もなぎさに波のよるのみぞ馴にし月の影はさしくる


(貞応2年4月10日)(グレゴリオ暦1223年5月18日)


十日、豊河を立て、野くれ里くれ遥々と過る、峰野の原と云処あり。日は野草の露より出て、若木の枝に昇らず、雲は嶺松の風に晴て、山の色天と一(ひとつ)に染めたり。遠望の感、心情つなぎがたし。

山の端は露より底にうづもれて野末の草に明る凌晨(しののめ)



やがて高志の山にかヽりぬ。石利(いわかど)を踏て火敲坂(ひうちざか) を打過れば、焼野原に草の葉萌出て、杪(こずえ)の色煙をあぐ。此林池を遥に行けば、山中に堺川あり。是より遠江国に移りぬ。

くだるさへ高しといえばいかゞせんのぼらん旅の東路の山

此山の腰を南に下て遥に見くだせば、青海浪々として、白雲沈々たり。海上の眺望は此処に勝たり。漸に山脚に下れば、匿空の如に掘入りたる谷に道あり。身をそばめ声を合わせてくだる。下りはつれば、北は韓康独往の栖、花の色夏の望に貧く、南は范蠡扁舟の泊、浪の声夕の聞に楽しむ。塩屋には薄き煙靡然となびきて、中天の雲片々たり。浜疁(ひんりゅう)には捜る潮涓焉とたまりて、数条の畝せき々たり。浪による海松布(みるめ)は、心なけれども黒白を弁へ、白洲に立る鷺は、心あれども毛砂にまどへり。優興にとゞめられて暫く立れば、此浦の景趣は窺に行人の心をかどふ。

 行過る袖も塩屋の夕煙たつとて海士のさびしさとやみぬ



夕陽の影の中に橋下の宿に泊る。鼇海南に湛て、遊興を漕行舟に乗せ、駅路東に通ぜり、誉号を浜名橋にきく。時に日車西に馳て、牛漢漸くあらはれ、月輪嶺に廻りて、兎景初て幽なり。浦に吹く松の風は、臥も習はぬ旅の身にしみ、巌を洗ふ波の音は、聞も馴ぬ老の耳にたつ。初更の間は日比の苦に、七編の薦の席に夢みると云ども、深漏はは今宵の泊の珍重に目覚て、数双の松の下に立てり。礒もとゞろによる波は、水口喧(女偏に魚、右に女)しく訇(ののし)れども、明蔭り行く月は、雲の薄衣を被て忍やかに過ぐ。釣魚の火の影は、波の底に入て魚の肝を燋し、夜舟の棹の歌は、枕の上に音信て客の寝覚にともなふ。夜も已に明行ば、星の光は隠て、宿立人の袖は、よそなる音によばヽれて、しらぬ友にうちつれて出づ。暫く旧橋に立とゞまりて珍き渡を興ずれば、橋の下にさしのぼる潮は、帰らぬ水をかへして上ざまに流れ、松を払ふ風の足は、頭を越てとがむれどもきかず。大方覉中の贈は此処に儲たり。

 橋本やあかぬ渡ときヽしにも猶過かねつ松のむらだち

 波枕よるしく宿のなごりには残して立ぬ松の浦風


(貞応2年4月11日)(グレゴリオ暦1223年5月19日)


 

十一日、橋下を立て、橋の渡より行々顧れば、跡に白き波の声は、過る余波(なごり)をよび返し、路に青き松の枝は、歩む裾を引とゞむ。北に顧れば湖上遥に浮で、波の皺水の皃に老たり。西を望めば潮海広く滔(はびこり)て、雲の浮橋風の匠に渡す。水上の景色は此も同けれども、潮海の淡鹹は気味是異なり。浥(みぞ)の上には波に翥鶚(みさご)、すヾしき水をあふぎ、船中には唐櫓をす声、秋の雁をながめて夏の天に行もあり。興望は旅中にあれば、感腸頻に廻て思休しがたし。

 此処をうち過て浜松の浦に来ぬ。長汀砂ふかくして行ば帰が如し、万株松しげくして風波声を争ふ。見ば又洲嶋潮を呑む、のめば即曲浦の曲より吐き出し、浜猗(ひんい)珠を汰(ゆ)る、ゆれば即畳巌の畳に砕き敷く。優哉艶哉、難忘雖忍。命あらばいかでか再来て此浦を見む。

 波は浜松には風のうらうへに立ちとまれとや吹しきるらん



 林の風にをくられて廻沢の宿を過、遥に見亘て行ば、岳辺には森あり、野原には津あり。岸に立る木は枝を上にさして正しく生たれども、水にうつる景は梢を逆にして本に相違せり。水と木とは相生中よしときけども、移る影は向背して見ゆ。時已に誰枯になれば、夜の宿をとひて池田の宿に泊る。


(貞応2年4月12日)(グレゴリオ暦1223年5月20日)


 

十二日、池田を立て暮々行けば、林野は皆同様なれども、処々道異なれば見に随て珍く、天中川を渡れば、大河にて水の面三町あれば舟にてわたる。水早く波さがしくて棹もえ指えねば、大なる朳を以て横に水をかきて渡る。彼王覇が忠にあらざれば、呼他河凘むすぶべきに非ず、張博望が牛漢の浪にさかのぼりけん、浮木の船かくやと覚て、

 よしさらば身を浮木にて渡なし天津みそらの中河の水

上野原を一里斗り過れば、千草万草、露の色猶残り、野煙径煙、風音又よわし。あはれ同くは、これ秋の旅にてあれな。

夏草はまだうら若き色なれば秋にさきだつ野べの面影



 山口と云今宿を過れば、路は旧に依て通ぜり。野原を跡にし、里村を先にし、うちかへうちかえ過行ば、事の任と申社に参詣す。本地をば我しらず、仏陀にぞいますらん、薩埵にもいますらん。中丹をば神必憐給べし。今身もおだやかに、後身も穏かに椙の村立は三輪の山にあらずとも、恋敷は問てもまゐらん。願は只畢竟空寂の法味を納受して、真実不虚の感応を垂給へ。

 思う事のまゝに叶へよ杉たてる神の誓のしるしをもみん



 社の後の小河を渡れば、佐屋中山にかゝる。此山口を暫くのぼれば、左も深き谷右も深き谷、一峰に長き路は堤の上に似たり。両谷の杪(こずゑ)を眼(まなこ)の下に見て、群鳥の囀を足の下に聞く。谷の両片はまた山高し。此際を過れば中山とは見たり。山は昔の山、九折(つづらおり)の道旧(ふるき)が如し、杪(こずえ)は新なる杪、千条の緑皆浅し。此所は其名殊に聞つる処なれば、一時の程に百般たち留てうち眺め行ば、秦蓋の雨の音、ぬれずして耳を洗ひ、商侄の風の響は、色に非して身にしむ。
 分のぼるさやの中山中なかに越て余波(なごり)ぞくるしかりける



 時に鴇馬蹄疲て、日烏翅さがりぬれば、草命を養んが為に、菊河の宿に泊ぬ。或家の柱に、中御門中納言宗行卿斯書付られたり。

彼南陽県菊水、汲下流延齢、此東海道菊河、宿西岸終命。


誠に哀にこそ覚ゆれ。其身累葉の賢き枝に生れ、其官は黄門の高き階(はし)に昇る。雲上の月の前には、玉の冠光を交へ、仙洞の花の下には、錦の袖色を争ふ。才身にたり栄分にあまりて時の花と匂しかば、人其をかざして、近も随ひ遠も靡き。かヽるうき目みむとは思やはよるべき。さてもあさましや、承久三年六月中旬、天下風あれて、海内波さかへりき。闘乱の乱将は花域より飛て、合戦の戦士は夷国より戦ふ。暴雷雲を響かして、日月光を覆はれ、軍虜地を動して、弓剣威を振ふ。其間万歳の山の声、風忘て枝を鳴し、一清の河の色、波誤て濁を立つ。茨山汾水の源流、高く流て遥に再海の西に下り、卿相羽林の花の族(やか)ら、落て遠く東関の東に散ぬ。是のみにあらず、別離宮の月光処々に遷ぬ、雲井を隔てゝ旅の空に住、鶏籠山の竹声方々に憂たり、風便を絶て外土に吟(さまよ)ふ。夢か現(うつつ)か、昔もいまだきかず。錦帳玉璫の床は、主を失ひて武宿となり、麗水蜀川の貢は数を尽て辺民の財となりき。夜昼戯て衿を重し鴛鴦は、千歳比翼の契生ながらたえ、朝夕に敬て袖を収めし僮僕も、多年知恩の志思ながら忘ぬ。実に会者定離の習、目の前にみゆ。刹利も首陀もかはらぬ奈落の底の有様、今は哀にこそ覚れ。今は嘆とも助べき人もなし。泪をさきだてゝ心よわく打出ぬ。其身に従ふ者は甲冑の兵の、心を一騎の客にかく。其目に立者は劔戟の刃、魂を寸神の胸にけす。せめて命の惜さにかく書付られんこそ、する墨ならぬ袖の上も露ぬべく覚れ。

心あらばさぞな哀と水茎の跡かきつくる宿の旅人



妙井渡と云処の野原をすぐ。仲呂の節に当て、小暑の気様々催せども、いまだ納涼の心ならねば手にはむすばず。

 夏深き清水なりせば駒とめてしばしすヾまん日は暮なまし



播豆蔵宿を過て大堰川を渡る。此河は中に渡り多く、水又さかし。流を越へ嶋を阻(へだ)て、瀬ヾ方々に分たり。此道を二三里行」けば、四望幽にして遠情をさへがたし。時に水風例よりも猛くて、白砂霧の如に立。笠を傾て駿河国に移ぬ。前嶋を過に波は立ねど、藤枝の市を通れば花はさきかゝりたり。

 前嶋の市には波の跡もなしみな藤枝の花にかへりつゝ



 岳部の里邑を過て遥に行ば、宇都山にかヽる。此山は山中に山を愛する巧の削成せる山也。碧岸の下に砂長して厳をたて、翠嶺の上には葉落て壌をつく。肢を背に負ひ、面を胸にいだきて、漸(ようやく)にのぼれば、汗肩袒の膚に流て、単衣をもしといへども、懐中の扇を手に動して、微風扶持可なり。かくて森々たる林を分て、峨ヾたる峰を越れば、貴名の誉は此山に高し。大方遠近の木立に心もわけられて、一方ならぬ感望に思みだれて過れば、朝雲峰くらし、虎季将軍が棲を去り、暮風谷寒し、鶴鄭大尉が跡に住む。既にして赤羽西に飛ぶ。眼に遮る者は檜原槇葉、老の力こゝに疲たり。足に任する者は苔の岩根蔦の下路、嶮難にたへず。暫くうち休めば、修行者一両客、縄床そばにたてヽ又休す。

立帰る宇津の山臥ことつてん都恋つヽ独越きと



行々おもへば、すぎきぬる此あひだの山河は、夢に見つるかうつヽにみつるか。昨日とやいはんけふとやいはん、むかしを今とおもへば我身老たり、今をむかしとおもへば我心わかし。古今をへだつる物はわが心の中懐なり。生死涅槃猶如昨夢といへるもあはれにこそおぼゆれ。昨日過にしあとはけふの夢となり、今日此処をすぐる、明日いづれの所にして今はきのふといはん。誠にこれ過ぬるかたの歳月を、夢よりゆめにうつりぬ。昨日今日の山路は、雲より雲にいる。

あすや又きのふの雲に驚かんけふはうつヽのうつの山ごえ



手越の宿に泊て足をやすむ。


(貞応2年4月13日)(グレゴリオ暦1223年5月21日)


十三日、手越を立て野辺を遥々と過ぐ。梢を見れば浅緑是夏の初なりと云ども、藂(くさむら)を望めば白露まだきに秋の夕に似たり。北に遠ざかり雪白き山あり。とへば甲斐の白峰といふ。年来聞し所、命あれば見つ。凡此間、数日の心ざしを養て、百年の齢を延つ。彼上仏の薬は下界の為によしなき者哉。

 惜からぬ命なれども今日あれば生(いき)たるかひのしらねをもみつ



宇度浜を過れば、波の音風の声、心澄処になん。浜の東南に霊地の山寺あり。四方高晴て、四明天台の末寺也。堂閣繁昌して、本山中堂の儀式をはる。一乗読誦の声は、十二廻の中に聞へて絶事なし。安居一夏の行は、採花汲水の勤験を争ふ。修する所は中道の教法、論談を空仮の顊(おとがい)に決し、利する所は下界衆生、帰依を遠近の境に至す。伽藍の名を聞けば久能寺と云、行基菩薩の建立土木風清。本尊の実を尋れば観世音と申、補陀落山の聖容出現月明なり。大方仏法興隆の砌、数百箇歳の星漢霜旧たり。僧侶止住の峰、三百余宇の僧房霞ゆたかなり。雲船の石神は、山の腰に護て悪障を防き、天形の木容は、寺内に納て善業をなす。千手観音彼山より石舟に乗て此地に下賜けり。其船善神と成て山路の大坂にいます、石舟の護法と号す。彼海岸山の千眼は、南方より北に下て有縁を此山に導き、宇度浜の五品は、天面を地に伝て舞楽を此浜に学べり。昔稲荷大夫と云者、天人の浜松の下に楽を調て舞けるを見て学び舞けり。天人ひとの見(みる)を見て、鳥の如に飛て雲に隠けり。其跡を見ければ一の面形を落せり。大夫是を取て寺の宝物とす。其より寺に舞楽を調て法会を始行す。その大夫が子孫を舞人の氏とす。二月十五日、常楽会とて寺中の大営なり。其後天に帰る廻雪は春の花の色、峰にとゞまる曲風は歳月の声。仍(よって)此浜を過れば、松に雅琴あり波に鼓あり、天人の昔の楽今聞に似たり。

 袖ふりし天津乙女が羽衣の面影にたつ跡のしら浪



江尻の浦を過れば、青苔石に生ひ、黒布礒による。南は澳の海淼(びょう)々と波をわかで、孤帆天にとび、北は茂松鬱々と枝を垂て、一道つらをなす。漁夫が網を引、身を助として労しめ、游漁の釣をのむ、命を惜て命を滅す。人幾(いくばく)の利をか得たる、魚幾(いくばく)の餌をか求る哉。世を渡る思(おもひ)、命をたばう志、彼も此も共に同じ。是のみかは、山にあせかく樵夫は、北風を負て晩に帰る、野にあしなへぐ商客は、白露を払て暁に出づ。面々の業はまちまちなりと云ども、各々の苦しみは是皆渡世の一事也。

 人ごとに趍(はし)る心はかはれども世をすぐる道はひとつなりけり

此浦を遥に見亘(わた)して行ば、海松は浪の上に根を離(かかれ)たる草、海月(くらげ)は潮の上に水に移る影、ともにこれ浮生を論じて人をいましめたり。

 波の上にたゞよふ海の月も又うかれ行とぞ我をみるらん



清見関を見れば、西南は天と海と高低一(ひとつ)に眼を迷し、北東は山と礒と嶮難同く足をつまづく。磐のには浪の花、風に開春の定めなり、岸うへには松の色、翠を含みて秋におそれず。浮天の浪は雲を汀にて、月のみ舟夜出て漕、沈陸の礒は磐を路にて、風の便脚あしたにすぐ。名を得たる所必ずしも興をえず、耳に耽る処必ずしも目に耽らず、耳目の感二(ふた)つながら従(ゆるし)たるは此浦にあり。波に洗てぬれぬれ行ば、濁る心も今こゝに澄り。宜なる哉、此処を清見と名付たる。関屋に跡をとへば、松風空(むなし)く答ふ、岸脚に苔を尋れば、橦花変じて石あり。関屋の辺りに布たヽみと云処あり。昔関守の布をとりおきたるが、積て石に成たると云り。

吹きよせよ清見浦風わすれ貝ひろふなごりの名にしおはめや

語らばや今日みるばかり清見潟おぼえし袖にかヽる涙は


 海老は波を游ぎ、愚老は汀に溺ふ、共に老いて腰かヾまる。汝は知哉生涯浮める命今いく程と、我は不知幻の中の一瞬の身。かくて息津浦を過れば、塩竃の煙幽に立て、海人の袖うちしをれ、辺宅には小魚をさらして、屋上に鱗(いろくづ)を葺り。松の村立浪のよる色、心なき心にも心ある人にみせまほしくて、

 たゞぬらせ行ての袖にかヽる浪ひるまが程は浦風もふく



 岫崎(くきざき)と云処は、風丙飄々と翻りて砂を返し、波粮々と乱て人をしきる。行客こヽにたへ、暫くよせひく波のひまを伺ひて忩(いそ)ぎ通る。左は嶮(さがし)き岳(おか)の下、岩の迫を凌行、右は幽なる波の上、望めば眼うげぬべし。遥々と行程に、大和多の浦に来て、小舟の澳中に溺(ただよ)へるをみる。颿帆(はんはん)飛て万里、風のたよりをたのみて白煙に入、(ごう)波うごきて千雲、夕陽を洗て紅藍に染む。海館の中に、此処は心をのみとヾめて身をばとヾめず。

 忘れじな浪の面影立そひて過るなごりのおほわだのうら(大和多の浦)
湯居宿を過て遥に行けば、千本の松原と云所あり。老の眼は極浦の波にしほれ、朧なる耳は長松の風に払ふ。晴天の雨には、翠蓋の笠あれば袖をたまくらにす。砂浜の水には、白花散ども風を恨ず。行々路を顧れば前途弥(いよいよ)ゆかし。

 聞わびぬ千ヾの松原吹風の一方ならずわけしをるこえ



 蒲原の宿に泊菅薦の上にふせり。


(貞応2年4月14日)(グレゴリオ暦1223年5月12日)


十四日(グレゴリオ暦1223年5月22日)蒲原を立て遥に行ば、前路に進み先立賓は、馬に水飼て後河にさがりぬ。後程にさがりたる己は、野に草敷てまだこぬ人を先にやる。先後あれば行旅の習も思しられて打過るほどに、富士川に渡ぬ。此河は河中によりて石を流す。巫峡のみずのみ何ぞ船を覆へさん、人の心は此水よりも嶮しければ、馬を馮(たのみ)てうちわたる。老馬々々、汝は智ありければ、山路の雪の下のみに非ず、川の底の水の心もよくしりにけり。

 音に聞し名たかき山のわたりとて底さへ深し富士河の水



浮嶋原を過れば、名は浮嶋ときこゆれども、実(まこと)には海中とは見えず、野径とは云つべし。叢あり木樹あり、遥かに過行けば人煙片々絶て又たつ。新樹程を隔てゝ隣互に外し。東行西行の客は、皆知音にあらず、村南村北の路に、たゞ山海を見る。

 おのづからしる人あらばいかヾせん疎にだにもすぐるなごりを



富士の山を見れば、都にて空にきヽしヽるしに、半天にかヽりて群山に越たり。峰は鳥路たり、麓は鹿蹊たり。人跡歩み絶て独りそびけあがる。雪は頭巾に似たり、頂に覆て白し、雲は腹帯のごとし、腰に囲(めぐり)て長し。高き事は天に階立たり、登る者は還て下る。長事は麓に日を経たり、過るものは山を負て行。温泉頂に沸して、細煙幽に立ち、冷池腹にたヽへて、洪流川をなす。誠に此峰は峰の上なき霊山也。霊山と云ば、定て垂迹の権現は尺迦の本地たらんか。彼仙女が変態は、柳の腰を昔語にきヽ、天神の築山は、松の姿を今のながめにみる。山の頂に泉あて湯の如くに沸と云ふ。昔は此峰に仙女常に遊けり。東の麓に新山と云山あり。延暦年中、天神くだりて是をつくと云り。都(すべ)て此峯は、天漢の中に冲(ひいり)て、人衆の外に見ゆ。眼をいたヾきて立て、神(たましい)怳(くゐやう)々とほれたり。

 幾年の雪つもりてか富士の山いたヾき白きたかねなるらむ

とひきつる富士の煙は空にきえて雲に余波(なごり)の面影ぞたつ



昔採竹翁と云者ありけり。女(むすめ)を焚奕(かぐや)姫と云。翁が宅の竹林に、鶯の卵、女形(じょけい)にかへりて巣の中にあり。翁養て子とせり。長(ひととなり)て好(かほよき)事比(たぐひ)なし。光ありて傍(かたはら)を照す。嬋娟(せんけん)たる両鬢(びん)は秋の蝉の翼、宛転たる双蛾は遠山の色、一たび咲めば百の媚なる。見聞の人は皆腸を断つ。此姫は先生に人として翁に養はれたりけるが、天上に生て後、宿世の恩を報ぜむとて、暫く此翁が竹に化生せる也。憐べし父子の契の他生にも変ぜざる事を。是よりして青竹のよの中に黄金出来して、貧翁忽に富人と成にけり。其間の英華の家、好色の道、月卿光を争ひ、雲客色を重て、艶言をつくし、懇懐を抽ず。常に焚奕(かぐや)姫が室屋に来会して、絃を調べ歌を詠じて遊あひたりけり。されども翁姫難詞を結て、より解る心なし。時の帝此由を聞食て召けれども参らざりければ、帝御狩の遊の由にて、鶯姫が竹亭に幸し給て、鴛の契を結び松の齢をひき給ふ。翁姫思ところ有て後日を契申ければ、帝空く帰り給ぬ。諸の天此を知て、玉の枕金の釵(かんざし)、いまだ手なれざるさきに、飛車を下して迎へて天に上ぬ。関城のかためも雲路に益なく猛士が力も飛行には由なし。時に秋の半ば、月の光蔭りなき比(ころほひ)、夜半の気色風の音信、物を思はぬ人も物を思べし。君の思臣の懐、涙同く袖をうるほす。彼雲を繋に繋れず、雲の色惨々(さむざむ)として暮の思(おもい)ふかし。風を追とも追れず、風の声札々として夜の恨長し。華氏は奈木の孫枝也、薬の君子として万人の病を癒す。鶯姫は竹林の子葉也、毒の化女として一人の心を悩す。方士が大真院を尋し、楊妃の私語再び唐帝の思に還る。使臣が富士の峰に昇る、仙女の別書永く和君の情を燋せり。

翁姫天に上ける時、帝の御契有繋に覚て、不死薬に歌を書て具して留めおきたり。其歌に曰(いわく)、 
 
今はとて天の羽衣きる時ぞ君をあはれと思いでぬる



帝是をご覧じて、忘形見は見も恨めしとて、怨恋に堪ず青鳥を飛して、雁札を書そへて薬を返し給へり。其の返歌に云、

 逢事の涙にうかぶ我身にはしなぬ薬もなにヽかはせん



使節知計を廻して、天に近き所は此山に如じとて、富士の山に昇て焼上ければ、薬も書も煙にむすぼヽれて空にあがりけり。是より此嶺に恋煙を立たり。仍此山をば不死峰と云へり。然而郡の名に付て富士と書にや。彼も仙女也此も又仙女也、其に恋しき袖に玉散る。彼は死して去る此は生て去る、同く別て夜の衣をかへす。都(すべて)昔も今も、好(かほよき)女は国を傾け人を悩す。つヽしみて色に耽るべからず。


  天津姫こひし思の煙とて立やはかなき大空の雲


車返と云処を過。此所は、若昔蟷螂の路に当て行人を留けるか、若遊児の土城を築て孔子の諫に答へける歟、昔小童の路中に小家を造て遊けるに孔子の通るとて、車にあやうし、そこのけと諫られけるに、小童部の曰く、車は家のある所をのぞきて過べし。未だきかず、家の車に去事をと。孔子是を聞て、車をめぐらして帰りにけり。若又勝母の里ならば、曾参に非ずともいかヾ通らむ。曽子は孝心の深き人にて、不孝の者の居たる所をば車を返してとほらず。険阻の地なれば大行路とは云つべし。此道はさかしくして車をくだく。されども騎馬の客なればうちうれて通りぬ。

 昔たれここに車のわづらひて轅を北にかけはづしけん



 木瀬川の宿に泊て、萱屋の下に休す。或家の柱に、又彼納言和歌一首をよみて、一筆の跡を留られたり。

 今日過る身を浮嶋が原にきてつひの道をぞ聞さだめつる

 此を見る人、心あればみな袖をうるほす。夫北州の千年は、限を知て寿(いのち)を歎く。南州の不定は、期(ご)を知ずして寿を楽しむ。誠に今日計(ばかり)と思けむ心の中を推すべし。大方は昔語りだにも哀なるに泪を拭ふ。何況や我も人も見し世の夢なれば、驚かすに付けて哀にこそ覚れ。さても峰の梢を払し嵐の響に、思はぬ谷の下草まで吹しをれて、数ならぬ露の身も置所なく成にしより、かく吟(さまよひ)て命を惜て失(うせ)にし人の言端(ことのは)を、存(いける)を厭ふ身は今まで有て、よそにみるこの哀れなれ。さても此歌の心を尋れば、納言浮嶋原を過るとて、物を肩にかけてのぼる者あひたりけり。問へば按察使(源光親卿)の僮僕、主君の遺骨を拾て都に帰と泣く々云ひけり。其をみるは身の上の事なれば、魂は生きてよりさこそは消にけめ。本より遁るまじと知ながら、おのづから虎の口より出て亀の毛の命もやうると、猶待れけん心に命は終にと聞定て、げに浮嶋原より我にもあらず馬の行に任て此宿におちつきぬ。今日斗(ばかり)の命、枕の下の蛩(きりぎりす)と共に哭明して、かく書留て出られけんこそ、あはれを残すのみに非ず、無(なき)跡まで情も深く見ゆれ。

さぞなげに命もをしの劔羽にかヽる別を浮嶋が原


(貞応2年4月15日)(グレゴリオ暦1223年5月23日)


 十五日、木瀬川を立つ。遇沢と云野原を過。此野何里とも知ず遥々と行ば、納言はこゝにてはや暇うべしときこえけるに、心中に所作あり今しばしと乞請られければ、猶遥に過行きけん、実に羊の歩に異ならず。心ゆきたるありきなりとも、波の音松の風、かゝる旅の空はいかヾ物哀なるべきに、況や馬嵬の路に出て、牛頭の境に帰らんとする涙の底にも、都に思おく人々や心にかヽりて、有やなしやのことのはだにも、今一たびきかまほしかりけん。されども澄田川にもあらねば、事とふ鳥の便だになくて、此原にて永く日の光に別、冥き路に立かくれにけり。

 都をばいかに花人春たえて東の秋の木葉とはちる



やがて按察使(光親卿)、前佐兵衛督(有雅卿)同く此原にて末の露本の滴(しずく)とおくれ先立にけり。其人常の生なし、其家常の居なし。此は世の習事の理なり。されども期(ご)来て生を謝せば、理を演(のべ)て忍ぬべし。縁つきて家をわかれば、ならひを存てなぐさみぬべし。別し所は憂所なり、城(みやこ)の外の荒々たる野原の旅の道、没せし時はいまだしき時なり、恨を含し悄々たる秋天の夕の雲。誠に時の災蘖(さいげつ)の遇(たまさか)に逢と云へども、是は先世の宿業の酬へる酬也。抑(そもそも)彼人々は官班身を餝り、名誉聞をあく。君恩飽までうるほして降雨の如し、人望かた々に開けて盛なる花に似たりき。中に黄門都護は、家の貫首として一門の間に楗(とぼそ)を排き、朝の重臣として万機の道に線を調き。誰か思し、天俄に災を降して天命を滅し、地忽に夭(わざはひ)をあげて地望を失んとは。哀哉、人木の鳥の跡は、千年の記念に残り、帰泉の霊魂は九夜の夢にまよひにき。されども善悪心つよくして、生死はたゞ限ありと思へりき。終に十念相続して他界にうつりぬ。夏の終秋の始、人酔世濁し其間の妄念は任他、南無西方弥陀観音、其時の発心等閑ならずは来迎たのみあり。是や此人々の別し野辺とうちながめて過れば、浅茅が原に風起て、靡く草葉に露こぼれ、無常の郷とは云ながら、無慚なりける別かなヽ。有為の堺とは思へ共、憂かりし世かなヽ。官位は春の夢、草の枕に永く絶え、栄楽は朝の露、苔の席に消はてぬ。死して後の山路は随はぬ習なれば、後るヽ恨も如何せん東路に独り出て、尤武者にいざなはれ行けん心の中こそ哀なれ。彼冥吏呵責の庭に、独り自業自得の断罪に舌をまき、此妻恩別離の跡に、各不意不慮の横死に涙をかく。生ての別れ死ての悲み、二ながらいかゞせん。真を移してもよしなし、一生幾かみん、魂を訪て足べし、二世の契むなしからず。
 思へばなうかりし世にもあひ沢の水と淡(あわ)とや人の消なん

 今日は足柄山を越て関下宿に泊るべきに、日路に烏群り飛びて、林の頂に鷺ねぐらをあらそへば、山の此方に竹の下と云処にとまる。四方は高き山にて、一河谷に流、嵐落て枕を叩く、問へば是松の音。霜さえて袖にあり、払へば只月の光。寝覚の思にたへず、独り起居て残の夜を明す。

 見し人に逢夜の夢のなごり哉かげろふ月に松風の声


 深(ふく)る夜の嵐の枕ふしわびぬ夢も宮こに遠ざかりきて


(貞応2年4月16日)(グレゴリオ暦1223年5月24日)


十六日、竹下を立、林の中を過て遥に行ば、千束の橋を独梁(ひとつはし)にさしこえて、足柄山に手をたてヽのぼれば、君子松厳くして、貴人の風過る笠を留め、客雲梢に重て、故山の巓(いただき)あらたに高し。朝の間は雨降て、松の風声の虚名を顕す。程なく日めん山の東にのぼりて雲はやく駅路の天に晴ぬ。彼山祇の昔の謌は、遊君が口につたへ、嶺猿の夕の鳴は、行人の心を痛しむ。昔青墓の宿の君女此山を越ける時、山神翁に化して歌を教へたり。足柄といふは此なり。時に万仭峰高し、樹の根に縋て腰をかヾめ、千里巌嶮俊し、苔の鬢をかなぐりて脛をのヽく。山中を馬かへしと云、馬もしこゝに留たらましかば馬鞍とぞ云まし。此より相模国に移ぬ。

 秋ならばいかに木葉のみだれまし嵐ぞおつる足柄の山



関下(せきのもと)宿を過ぐれば、宅を双ぶる住民は人をやどして主とし、窓にうたふ君女は客を留て夫とす。憐べし千年の契を旅宿一夜の夢に結び、生涯のたのみを往還諸人の望にかく。翠帳紅閨、万事の礼法ことなりといへども、草庵柴戸、一生の観遊是おなじ。
 桜とて花めく山の谷ほこりおのが匂も春は一時



 路は順道なれども、宿を逆川(さかは)と云所に泊る。塩のさす時は上ざまに水の流るればさか川と云。北は片岳(かたおか)、旧疁うちすさみて蒲の焼折れ青葉にまじり、南は満海、浪わきあがりて白馬ならびわたる。しかのみならず、前汀東西、素布を長畳の波に洗ひ、後園町段、緑袂(りょくべい)を万茎の竹にかく。時に暮行日脚は、景を遠嶋の松にかくし、来宿する疎人は、契を同駅の蓆にむすぶ。彼草になつく疲馬は、胡国を忍て北風に嘶(いば)へ、野に放つ休牛は、呉地にならひて夜の月にあへく。棹歌数声、舟船を明月峡の口によせ、松琴万曲、琵琶を尋陽江の汀にきく。一生の思出は今夜の泊にあり。

 行とまる磯辺の浪のよるの月旅ねの袖に又やどせとや


 

(貞応2年4月17日)(グレゴリオ暦1223年5月25日)


十七日、逆河(さかは)を立て平山を過ぐ。高倉宰相中将範茂、急河(はやかわ)と云淵にて底のみくづと沈にけり。倩(つらつら)其昔を思へば哀にこそ覚ゆれ。日本国母の貴光を耀かす光のすゑに身を照し、天子聖皇の恩波を灑ぐ波の滴に家をうるほす。羽林の花新に開、春にあへる匂天下に薫し。射山の風温にあふぐ、時にあたる響き遠近にふるふ。はかりきや、栄木嵐たヽきて、其花塵となり、逝水ながれ速にして、其身淡と消しとは。連枝の契片枝はや折ぬ、家苑の地路むなしく残れり。魮ぼく(魚偏に目)(ヒラメ)の睦び一頬をならべず、他郷の水おちて帰らず。一生こゝに尽ぬ。此川は三泉の水口たるか。云事なかれ水心なしとは、波の声嗚咽して哀傷をよす。

 流ゆきて帰らぬ水のあはれとも消にし人の跡とみゆらん



此次(ついで)に相尋れば、一条宰相中将(信能)美濃国遠山と云所にて、露の命風をかくしてけり。夫(それ)洛中に別を催しヽ日は、家を離し恨、弥(いよいよ)悪業の媒(なかだち)たりしかども、旅の路に手を啓し時は、家を出る悦び遠き善縁の勧にあへり。掌を合せ念を正しくして魂独去にけり。臨終の儀を論ぜば往生とも云べし。東土には、縦(たとひ)勇士永く一期の寿木を切るとも、西刹には、聖衆定て九品の宝蓮に導き給らん。彼羽化を得て天闕に遊にし八座の莚、家門の塵を打払ひ、虎賁を兼て仙洞に趍る累葉の花、芳枝の風に綻き。傷哉、平日の影、盛にして未だ西天の雲に傾かざるに、寿堂の扉、永く閉て北芒の地に埋む事を。花の床をなにか去けん、跡に泊て主なし。親族は悲めども由なし、旅に出て独死す。楊国忠が他界に移し、不知人の恨を成ことを。平章事の遠出に滅びし、思やりき身の悲遠く含みけん事を。彼東平王の旧里を思ふ、墳上の風西に靡く、誠にさこそはと哀にこそ覚れ。

 思ひきや都をよそに別路(わかれぢ)の遠山のへの露きえんとは



夫人の生たるは庭に落る木葉の風に動くが如し、風息(やみ)ぬれば動かず。死と思ふは旅に出る行客の宿に泊るが如し、こゝに別ぬと云どもかしこに生れぬ。たヾ煩悩の眼のみ見ざる事を悲み、愚痴の心のみ知ざる事を恨むべし。早く別を惜まん人は、再会を一仏の国に約し、恩を恋し人は、追福を九品の道に訪(とぶら)ふべし。

 今更になに嘆(なげく)らむ末の露本より消し身とはしらずや



 大礒浦小磯浦を遥々と過れば、雲の橋浪の上に浮て、鵲の渡守り天津空に遊ぶ。あはれさびしき空かな、眺め馴てや人は行らんな。
 大礒や小磯の浦の浦風に行ともしらずかへる袖かな



 相模河を亘ぬれば、懐嶋入で砥上の原の出づ。南の浦を見遣れば、波の綾織はて白き色を濯ふ。北の原を望ば、草の緑染なして浅黄をさらせり。中に八松と云所あり。八千歳の陰に立寄て、十八公の栄を感ず。

 八松の千代ふる陰に思なれてとがみが原に色もかはらず



 固瀬川を渡て江尻の海汀を過れば、江の中に一峰の孤山あり。山に霊社あり。江尻の大明神と申。威験ことに新にして、御前を過る下船は上分を奉る。法師は詣ずときけば、其心を尋るに、昔辺山の山寺に禅侶ありて、法花経を読誦して夜を明し日を暮す。其時女形出来て夜毎に聴聞して明れば忽然として失(うせ)ぬれば其行方を知ず。僧是を怪て線(いと)を構て潜に其裾(きぬのすそ)に付てけり。曙(あけぬる)朝に糸を見れば、海上に引て彼山に入ぬ。巌穴に入て竜尾につきたりけり。神竜顕形して後、僧に恥て是を入ずと云り。夫権現は利生の姿也、化現せば何ぞ姿にはヾからん。弘経は読誦の僧なり、経を貴まば何ぞ僧を厭はんや。深き誓は海に満り波にたるヽあと、惢体(すゐたい)は天にしられたり雲に響声。されども神慮は人知べからず、宜禰がならはしに随てふしおがみて通りぬ。

 江の嶋やさして塩路に跡たるヽ神は誓の深きなるべし



 路の北に高き山あり。山の峰童(すると)にて貴からずといへども、怪石双居て興なきに非ず。歩をおさへて石をみれば、昔波の掘穿たる巌ども也。海も久くなれば干やらむとみゆ。腰越と云平山のあはひを過れば、稲村と云所あり。嶮き岩の重なりふせる迫(はさま)をつたひ行ば、岩にあたりてさきあがる浪花の如くに散かヽる。

 憂身をば恨て袖をぬらすともさしてや波に心くだかん



 申の斜に湯井浜におちつきぬ。暫く休て此所をみれば、数百艘の船ども、縄(つな)をくさりて大津の浦に似たり。千万宇の宅(いへ)軒双て大淀渡にことならず。御霊の鳥居の前に日を晩(くら)して後、若宮大路より宿所につきぬ。月さしのぼりて夜も半にふけぬれば、思おきたる老人おぼつかなく覚て、

 都には日をまつ人を思をきて東(あづま)の空の月をみる哉



鶏鳴八声の暁、旅宿一寝の夢驚て、立出て見れば、月の光屋上の西に傾きぬ。

 思やる都は西に在明の月かたぶけばいとヾ恋しき


 

(貞応2年4月18日)(グレゴリオ暦1223年5月26日)


十八日、此宿の南の檐(のき)には高き丸山あり。山の下に細き小川あり。嶺の嵐声落て夕の袖をひるがへし、湾水響きそヽいで夜の夢を洗ふ。年来床しかりつる処いつしか周覧相催し侍れども、今に旅なれねば今日は空く晩(くらし)つ。相知たる人一両人侍を憑(たのみ)て、物なんど申さんと思程に、違てなければ、いとヾ便なくて、

 たのみつる人はなぎさのかたし貝あはぬにつけて身を恨つヽ



 さらぬ人は多けれども、外(うと)ければ物いはず。其中に古き得意一人ありて、不慮の面談をとぐ。先往事の夢に似たる事を哀て、次に当時(そのかみ)の昔にかはる事を嘆く。互に心懐を演(のべ)て暫く相語る。

 其後立出て見れば、此所の景趣は、海あり山あり、水木便あり。広にも非ず狭にもあらず、街衢の巷はかたがたに通ぜり。実にこれ聚をなし邑をなす、郷里都を論じて望先づまづらし。豪を撰び賢を撰ぶ、門槨しき身を並て地又にぎはへり。

 おづおづ将軍の貴居を垣間見れば、花堂高く排(おしひらい)て、翠簾の色喜気を含み、朱欄妙に構へたり、玉砌の磌(つみいし)光をみがく。春にあへる鸎の音は、好客堂上の花に囀り、朝を迎る竜蹄は、参会門前の市に嘶(いば)ゆ。論ぜず、本より春日山より出たれば、貴光高く照て、万人皆瞻仰(せんぎょう)す。土風塵を払ふ、威権遠く誠にして、四方悉く聞に恐る。何況哉、旧水源澄まさりて、清流弥遺路をうるほし、新花栄鮮に開て紫藤遥に万歳を契る。大底(おほむね)坐制を帷帳の中に廻して、懲粛を郡国の間に縮めたり。而のみならず、家屋は扄(ときし)を忘れて夜の戸を排(おしひら)き、人倫は心調て誇りともおごらず、憲政の至おさまりてみゆ。

 夜の戸も のどけき宿にひらくかな蔭らぬ月のさすに任て



 此辺縁につきておろおろ歴覧すれば、東南角の一道は、舟檝津商賈のあき人は百族羸にぎわひ、東西北の三界は、高卑の山屏風の如に立巡廻て所を餝れり。南の山の麓に行て大御堂あり。新堂を拝すれば、仏像烏瑟の光は、瓔珞眼に耀き、月殿画梁の粧は、金銀色を争ふ。次に東山のすそに望て二階堂を礼す。此は余堂に踔躒して難及感嘆。第一第二重る檐(のき)には、玉の瓦鴛の翅をとばし、両目両足の並給へる台には、金の盤雁灯を挑(かかげ)たり。大方、魯般意匠を窮て、成風天の望に冷(すずし)く、眦首手功を尽せり、発露人の心に催す。見れば又、山に曲木あり庭に怪石あり、地形の勝たる、仙室と云つべし。三壺に雲浮べり、七万里の浪池辺によせ、五城(ごせい)に霞峙り、十二楼の風階の上にふく。誤て半日の客たり、疑らくは七世の孫に会ん事を。夕に及て西に帰ぬ。鶴岳(つるがおか)に登て鳩宮に参ず。緋の玉垣霊鏡に映じて、白妙の木綿幣(ゆうふしで)夜風に染り、銀の璫(こじり)は朱檻を磨き、錦の綴りは花軒に翻る。暫く法施奉て瑞籬に候すれば、神女が歌の曲は、権現垂迹の穏教に叶ひ、僧侶の経の声は、衆生成道の因縁を演ぶ。彼法性の雲の上に、寂光の月老たりと云うども、若宮の林の間に、応身の風仰ぎて新なり。

 雲の上に蔭らぬかげを思へども雲よりしたに曇る月影


月の光にたヽずみて、岩屋堂の山梢かすかにながめて不審帰る。


[帰洛]


(貞応2年4月29日)(グレゴリオ暦西暦1223年6月6日)頃か


 適(たまたま)の下向なれば、遊覧の志切々なれども、経廻わづかに一旬にして、上洛已に五更に成ぬれば、余波(なごり)の莚を巻て出なん事をいそぐ。時に入逢の鐘の声より驚かせば、永と思つる夏の日も今日はあへなく暮ぬ。一樹の陰宿縁浅からず、拾謁のむつび芳約ふかき人あり。暫く別れを惜て志をのぶ。

 きてもとへ今日計なる旅衣あすは都にたちかへりなん

返事

 旅衣なれきて惜き余波には帰らぬ袖も恨みをぞする



五月の短夜、郭公(ほととぎす)の一声の間に明けなんとすれども、昌蒲(あやめぐさ)一夜の枕、再会不定の契を結(むすび)すてヽ出ぬ
かりふしの枕なりともあやめ草一夜の契思わするな



湯井浜をかへり行ば、浪のおもかげ立そひて、野にも山にもはなれがたき心地して、

なれにけり帰る浜路に満つしほのさすが名残にぬるヽ袖かな



[あとがき]


作者の人生観、死生観が述べられているが、東海道の旅には関係ないので割愛。

 

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