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晩秋の古道七里堀を行く

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「晩秋の古道七里堀を行く」は武内廣吉による鎌倉街道、下ノ道の初期の経路として武蔵相模国境をなす現在の横浜市の丘陵の尾根が想定されていた古道の踏査記である。その古道は七里堀と呼ばれていたが、起伏が大きいことから後に変更された。その後も江戸時代に至るまで細々と使われていたようである。しかし平安時代にはこの経路こそが東海道の幹線であったと考えられる重要道路である。現在はこの丘陵は住宅地の開発で鎌倉街道特有の掘割は勿論のこと、地形そのものが大きく改変されている。上記著者、武内氏はこの経路を何度も歩いたことがあるらしく、昭和47年?11月3日に同好の人たちを案内してこの七里堀を歩いている。丁度、野庭団地の建設中で、この時が原地形をとどめていた最後の時期と考えられ、この踏査記は貴重なな記録である。残念なことは現在の地形、地名と照合できるような目印の記述が少なく、正確に跡をたどれないことである。しかし七里堀を実際に知る生存者が居なくなってしまった現在としては、貴重な記録であることには違いない。 以下、上記書籍を入手、閲覧できない方のためにp211から215までを抜粋する。
ちなみに、平安鎌倉以前の1里は約530mなので七里堀とは約3.7kmである。横浜市西部のなだらかな丘陵部の稜線にU字状に堀りくぼめられた道路が鎌倉街道七里堀である。平安時代にはもちろん何もなく稜線だけが目印の道であった。
※画像は2008年撮影のもの。古道は開発によりどこかわからなくなっている。右側が横浜市街。
武州久良木郡地名考p.211「晩秋の古道七里堀を行く」
武内廣吉著、まほろば書房より抜粋


晩秋の古道七里堀を行く


 秋晴れの文化の日、午前九時半、大船駅東口に集合した私たち十人の一行は、南武蔵最古の古道七里堀を踏査しようと笠間のバス停留場に向かった。駅前の乗車場の位置が変わっていたので、皆乗ったはずなのに二人残して来てしまった。笠間の停留所でしばらく待ち、全部そろったので出発、一丁ばかり行くと橋の向こうで、道は二筋に分かれていた。昔は左が中ノ道、右が下ノ道で今も変わりはなさそうだ。この辺が鼬川(いたちがわ)の宿の跡である。鎌倉から室町にかけて繁華な宿で、江戸時代ならば品川といったところである。兼好法師もかつてここでつくった「いかにわが立ちにし日より塵のゐて風だに寝やをはらはざらん」という折句も有名である。今では住宅や小工場などが立ち並んで賑やかな町になりそうだ。
 この大船から藤沢辺りはニ、三千年前の縄文式土器時代から弥生式土器時代には、大きな入江だったそうだ。平安時代後期の『更級日記』にも、藤沢の西富は海岸で白波が寄せたり返したりしていた、と記されている。今は新しい町造りで活気だっている。滄桑の変とはこのことである。ここから昔の中ノ道に分かれて、下ノ道を小菅ヶ谷町の宿谷戸に来た。ここも昔は宿であって、この名が残っている。谷戸の入口には終戦のころまであった海軍の燃料廠の強大な鉄筋コンクリートの建物が怪物のように谷戸一杯に蟠居している。そのかたわらの道筋に「従是ぐみようじ道」と刻んである高さ一メートル位の石の道標が立っている。あたりはすっかり田舎らしくなって、野菊の咲く畔道の向こうの山裾に、今ではめずらしく長屋門のある大きな農家が見えて来た。やがてうねうねと迂回している山道にかかった。竹藪を通り抜けて深い杉の林の坂道を登って行くと、両側が深い谷底になっている桟道もあって、どことなく古道の面影がある。やっと見晴らしのよい山頂に出た。
見渡す限り涯もない武相の山谷を、真一文字にどこまでも東西に走っている高圧線の鉄塔の下で、ひと休み、相模灘から伊豆半島の山波が一望の内に展開している。不二、箱根から丹沢、秩父の連山は雲に隠れていたが、大船観音や、戸塚の二十一階のドリームランドは目の前に見える。どうしたことか、見えるはずの江ノ島は天候のかげんか、廿の瞳の狂いか、見当たらない。大いに期待していた栗やあけびも、すでに時期が過ぎていたらしく見あたらない。それでもあけびの実は時たま見つけた。紫色になった実は割れて、枝の上から大きな口を空けて大空を眺めている。もちろん実は鳥たちに啄ばまれて空っぽ、残念である。そしてりんどうが草むらの陰で、くすっと笑っているように、こっそり咲いていた。
 丘を下って、谷の奥まった所にくると、荒れ果てた農家が一件。こんな山奥にたった一軒家で住んでいた人もあったのかと、兼好法師ではないが「かくても在られけるよ」と歎息。近寄ってみると、棟は既に崩れ落ち、屋敷の周囲は竹薮に囲まれて、庭には直径一尺五、六寸もあろうかと思われる大きな蜜柑の木が一株残っていたが、枝もたわわに実はなっていなかったし、厳しい囲いもなかったので、法師のように興醒めはしなかったが、その滅び行く物の姿は、一層人の世の哀れを感じさせた。
 それからまた、篠竹の生い茂った小道を登って行くと、高さ九十四・ニメートルの、この辺で一番高い丘の上に出た。ここから武相の国境線七里堀にかかる。東を見ると東京湾方面が一目に見渡されて、峰のテレビ中継所や栗木のゴルフ場も目と鼻の先に見えて、磯子の汐見台団地の高層建築も林立している。
  この見晴らしのよい芝生の上で、ちょうど時刻なので各自弁当を広げた。青空の下、食べる弁当はまた格別、近頃の観光旅行とは別の味がある。それぞれ満腹して元気回復、どうやら空模様も怪しくなってきたので出発、畔道をたどり森や林を抜けていく程に、やがてこの道も消えるようになくなってしまった。『更級日記』にあるように「野山芦荻の中を分くるより外のこともなくなって武蔵と相模の中」を行く物すごい道になった。徳川初期に廃道になってから四百年、それでも小菅ヶ谷の入口に正徳五年(1715)の道標があるのをみると、表街道ではなくとも多少の人通りはあったのだろう。しかし今ではまったくの草刈道になり、所によると里人も通らない藪だたみで、婦人たちはストッキングのエレベーターを気にしながら通り抜けた。お詫びいたします。
 そこで次の難所は避けて畔道づたいに下野庭へでたが、途中野良仕事に連れてきたらしい大牛が一頭、行く手をふさいでしまったので、後続の者はとおれなくなってもじもじ、やっと近くのおじさんに捕らえてもらって、無事通過、ほっと一息した。それから下野庭のムラを越えて、吉原の境に工事中の第百団地の丘の上に出たら、突然目の前が開けた。横浜郊外の丘という丘はまったくの団地続きで、青い屋根赤い屋根が櫛比して、遠い丘の上には、高層ビルが摩してどこまでも立ち並んで見えた。この景観をじっと眺めていると、光仁天皇の宝亀ニ年(771)以来たびたび史書や詩文に現れて来て、日本文化と切り離せないこの道が、すでに切り崩されてしまったが、今もえんえんと続いているような錯覚に陥った。
 団地を下って下野庭口で、冷たい飲み物に喉を潤し、ふたたび尾根を登った。ここが『新編武蔵風土寄稿』に記されている七里堀の鍛治屋敷の一本松の跡で、一里塚があったそうだ。また同書には、松は枯れた、とあるが、後にその跡に植えられたものだろうか、その松は途中から枝が三本に分かれていたので、三本松ともいわれていたが、最近団地造成のため切り倒されたそうである。小栗判官と照手姫で有名な権現堂の駅址も壊されて、ここから目の下に見える。権現堂を下って岡本橋の記念碑にも記されている青木台の古道に来た。この道は物すごい崖の上に横たわっていて、その途中に行き倒れの廻国巡礼の供養碑があった。「享保十九年(1734)甲寅 六月特に地、覚運露休信土霊位、廻国、常陸国多珂郡小豆畑村小豆畑、谷兵衛」とあり、正面に地蔵尊が刻んである。土地の人の言に、「ここで倒れた廻国巡礼のために供養として建てた」という。
 明治二十三年(1890)六月、後の建長寺管長釈宗演師撰書の「岡本橋記念碑」が鎌倉街道沿いの笹下郵便局のかたわらにのこっているが、その碑文にその頃までこの青木台の上を鎌倉道が通っていた事を記している。この屹立した断崖の姿といい、崖下に青木神社の種々の伝説といい、その昔大岡川がたびたび氾濫したことを物語っている。文明十七年(一四八五)に道興准后が通った新道が、最戸の餅居坂から永谷の馬洗川を経て、舞岡台から花立に下り、鼬川(いたちがわ)に出る新道で、永年にわたる大岡川の氾濫を避けてできた道のようである。このほか、間道ではあるが、日野町宮ヶ谷から戸塚区中野町に抜ける道もあったようだ。私たちは大久保の青木神社の前で小休止して、それから上大岡駅で無事解散した。


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