平安時代の車の乗り心地
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平安時代の車の乗り心地

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 平安時代の車は絵巻物見られる牛車はきらびやかな装飾が施され優雅に見えるが、実際に乗り心地はどうだったのだろう。テレビ番組のため実際に試乗が行われた際の状況を吉田光邦氏が言及されているので、関連部分を抜粋する。これは全集の月報であり、書籍にはなっていないと思われる。

 

平安時代の乗物


 『延喜式』(巻十七)内匠寮。ここは宮廷や政府関係の手工業製品の中心であった。乗物もここで作られる。第一に腰輿、周囲に鳥居形の高欄のあるもの。金具には水銀利用の鍍金(めっき)がされているし、長功で七八人の手間を要するとあるからかなり精巧なものであった。また漆四升、掃墨(はいずみ)一升五合を用いるとあるので、全体は黒漆仕上げだったと察せられる。
  ついでは腰車。屋形のついたもので障子六枚が立てられる。材料には腰輿と同じく水銀鍍金、漆などが必要だから、同じような装飾がほどこされていたらしい。長功で二百九十二・五人の手間だが、その内わけは、木工、銅工、鉄工、画工、釭工、張工、漆工などに区分される。それぞれ専門の工人がいたようだ。
  これについで牛車。車輪部はイチイの木が用いられた。手間には長短功の区別なく、工百三人、夫九十人とある。
  さて、天子の尊称を車駕と称するが、これはもちろん中国風のいい方である。中国では、儒学の古典『周礼考工記』に、くわしく車人、輪人などの工作規格を見ることができる。また、画像石(墓祠を構成したレリーフのある石材)にも多くの車馬行列の図がある。そのほか殷の遺跡からは、発達した戦車が発掘されている。こうした点からみると、中国は古くから車の文化の発達した地であった。戦争にも平時にも、中国ではさまざまなタイプの車が用いられた。これらの車を引くのは牛、馬が中心であったが、人のひく車、羊のひく車まで用いられていた。
     この中国の車の発達にくらべて、日本では車の文化はさほど発達しなかった。それは自然地理的な条件や、ひくための畜力に乏しかったことなどの理由がある。そのため、中国の文化をたえずモデルとした奈良、平安のころでも、車の種類は以上のようにごくすくなかった。王朝の頃の儀制を伝える故実関係の書物をみると、檳榔庇(びろうびさし)の車などのように、いろいろな車のバリエーションは見られる。しかし、それらも装飾の変化をもって変化を与えたにとどまり、機能の変化ではない。
  この種の形制を伝えるものに『九条家車図』『西園寺家車図』などがある。そして、いわゆるTPOに応じて用いる車が図示される。しかし、いずれの場合も、車の基本構造は少しも変わっていない。ただ部材の変化、装飾画などの変化が見られるにすぎぬ。
  この種の車の乗り心地は決してよいものではない。道路は別に舗装されていないし、車輪は木製そのままである。その屋形部と車台部の接合部にもバネ的なものはない。だから車に乗って酔った話が物語類によくあるのは事実であろう。いつか、あるテレビでこれを実験してみたことがある。京都ではまだ葵祭をはじめとして牛車の出る祭りはいくつかあるし、車大工もわづかながら残っている。そこでそのひとつに、正装の女性を乗せて郊外の未舗装の道で動かしてみたのであった。わずかな道のりであったが、くだんの女性はすっかり酔ってしまった。
  車にくらべると輿の方は、人の手や肩がクッションとなるので、まだしも楽である。一方、板の四すみに手をつけて物を運ぶことは普通の生活から生まれよう。『太平記』にみるアヲタは、この系統のものを手負いを運ぶのに利用したのであろう。四つ手ともいった。後世、火急の場合に戸板に乗せて病人を運ぶの類である。こうした手輿(たごし)ふうのものは、ヨーロッパでも近世までよく用いられた。
  ところで、江戸期に盛行した駕籠(かご)あるいは乗物は、この手輿系のものではない。さしにないで重量物を運ぶ、土木系、農村系の技術の延長である。鎌倉期の作である『当麻曼荼羅縁起(たいままんだらえんぎ)』に、二人の男がモッコで土を運ぶ図(省略)がある。モッコは方形の竹でも編んで作ったようなものである。こうした運搬技術が、やがて人を運ぶものに変化していったのではないか。
(以下略)
吉田光邦:小学館、日本古典文学全集月報40、p.4(大鏡)(昭和49年12月)


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