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上総の国境を出てから下総池田までの経路と池田の池

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村田川の国境を出て菅原家一行はどのような道をたどり最初の宿営地、池田に向かったのであろうか。これについては吉野秀雄氏による文字通り”地に足がついた”詳細な研究があるので、その概略を紹介させていただく。平安時代の池田(更級日記には「いかた」)という土地の景観についても興味深い論考をされている。
吉野氏の研究は下記からダウンロードできます。
http://www.chibaken.jp/_userdata/sarasina.pdf


台地の縁をたどる直線道


明治14年測量の地形図には東京湾沿いに村田川から池田(千葉市長洲辺り)に向かう2本の道がある。このうち近世に使われていた本道は海岸沿いの道であったようである。一方台地の縁を一直線で結ぶ道路は台地から流れ出す湧水でできた池をたどり、字(あざ)界ともなっている。これは古代官道の特徴を示すもので、この道こそが平安時代の官道である可能性が高い。
湧水池は古代の旅に必ず必要なものである。この道では南から
生実(おゆみ)池→菰(こも)池→綿打池 と連続している。
※メイン画像は千葉市中央区宮崎2-3辺りから北の方角を撮影したもので一直線に道路が伸びていることがわかる。少し先(200m)に見える森が菰池公園(池は今はない)


都川流域は低湿地で現代とは地形が異なった


都川と葭川で挟まれた流域はつい最近まで水害が起こる地域で流路がたびたび変わる不安定な土地であった。その事実と平安時代は温暖期で、いわゆる”平安海進”により海岸線が内陸に入り込でいた可能性があり、それを考え合わせると、この地域は池や湿地、潟が点在する沼沢地帯だった可能性がある。現に、この地域にはかつて、池田の池があったという伝承がある。池の位置には、現在は千葉市立本町小学校がある。

 

吉野説に対する感想


まず、以下は、この地域について何ら知識を持ち合わせていないサイト管理人の感想であることをお断りしておきます。
平安時代の官道が台地の縁を一直線に結ぶ道路であることには全く同感である。海岸よりの道路は交通量が増えた近世以降に整備されたものではないだろうか。古代道路は平面的には一直線でも起伏は結構ある場合がある。現在の道路はかなり削平されてなだらかになっているが、当時は小刻みな上り下りが多く歩きにくかったのではないだろうか。
”池田の池”についても、そのような景観の時代があったことは間違いないように思える。ただ、平安時代中期には、水辺の面積はかなり縮小していたのではないだろうか。推定図のような地形であれば、数十年に一度の大水で必ずショートカットが起こって排水され、上流から流下する土砂で池は徐々にに埋まり、中心部を残して大部分は湿地帯になっていたように思える。ショートカットは一度ならず”忘れた頃に”何度も起こりそのたびに流路が変化したと考えられ、「長者の門の趾」も最も新しく起こった大水の名残ではないだろうか。とすれば、菅原家一行が渡った「深き川」は現在の都川でいいことになる。また「池田」という地名も、文字通り「池」を干拓して作った田からきているのではないだろうか。池を干拓して田を作る場合、池の深いところは「ドブ田」となり、いい田圃にはならない。そのような場所は盛り土して、明治以降学校などの公共施設がつくられることがある。さて本町小学校の開校前には何があったのだろう。


生実(おゆみ)池。台地から湧き出す水を現在でも満々と溜めている。
吉野秀雄氏による千葉市中心部の平安時代の推定地形。葭川と都川に挟まれた地域は広大な湿性地帯であった。推定古代官道(黒線)は都川上流から運ばれてくる土砂でつくられた微高地上を通る。この説に従えば池田の渡しは現在の地名でいえば千葉市中央区要町辺りということになる。深き川とは原、葭川か。
千葉市立本町小学校。”池田の池”仮説の池のど真ん中に位置する。南側の道路から撮った写真だが、道路面より運動場が多少低い。

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