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相模国の平安・鎌倉時代東海道の経路

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平安時代の相模国は自然災害とともにあった


  西富から国府津までの経路は海岸を通るしかないからほとんど、近世東海道と大差ないコースとなる。問題となるのは足柄平野を横断して国府津から関本に至るルートである。富士山は平安時代前期に活発な活動をし、その降り積もった火山灰により足柄平野を流下する酒匂川水系は頻繁に氾濫し平野を直線的に突っ切る街道はあったとしても非常に不安定であったと思われる。それは江戸時代に起こった宝永の富士山噴火後に起こった多くの水災害事例から容易に類推できる。現在の足柄平野の水系・道路網は宝永以後の姿であるから、明治以後の旧版地図に痕跡をたどっても意味はなく、平安時代の経路はわからない。
延喜式にある古代駅路でも小総駅(国府津)から坂本駅(関本)の途中経路までは記述がない。
 鎌倉時代の『東関紀行』は足柄峠経由で鎌倉に向かった貴重な記録であるが、関本から酒匂川沿いに南下し酒匂に宿泊している。とすれば関本から国府津に直線的に向かう古道は元々なかったのかもしれない。
また、実測図ではないが江戸時代前期の古地図※にも関本ー国府津を結ぶ直接結ぶ街道的道路は見られない。もちろんこの時代は箱根路の時代だから存在しなくて当然かもしれない。
以上の事から、距離が短くても小さな水路をいくつも渡るのでは却って時間と労力がかかるので、それを避けるため平安時代も国府津から海岸沿いを酒匂まで来て川沿いに北上して適当な浅瀬で渡河し関本に至ったと考えておく。
関本から駿河国竹之下(更級日記では関山)に至る道は一本道の山道で現在の登山道と大差ないと思われる。平安時代には江戸時代の地図に見られる矢倉沢という地名も地蔵堂もなかったと思われるが、同じポイントを経たと考えられる。

※相模国全図:明治大学図書館蔵「蘆田文庫」。これは復刻版が人文社から出版されていて購入できる。この地図の制作年代は明記されていないが、神崎彰利氏の解説では、内容から正保元年~万治年間(1644-1660頃)と推定されるという。

メイン画像はプロアトラスSV7、25万分の1広域デジタル地図から一部抜粋編集


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