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古代横走りの関と静岡県小山町横山遺跡、および竹之下の関係

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更級日記の菅原家一行は足柄峠を越え「横走りの関」にとどまった。その場所は、現在のどこか、中世の「竹ノ下」と関係があるのか。

  『かろうじて、(足柄峠を)越え出でて、せき山にとどまりぬ。これよりは駿河なり。よこはしりの関のかたはらに、岩壺といふところあり。』(更級日記)

  菅原家一行は「峠から下りてきて、すぐ、そこにあった『関山』にとどまった」とある。その「関山」に続けて『横走りの関』が語られているが『関山』と『横走りの関』が同じ場所かという問題である。文脈から見れば続けて書かれているので同じ場所であると考えるのが自然である。関山は”関がある山”から来た呼称であり、「横走りの関」はその固有名詞であるので現地ではどちらも同じように使われていたのだろう。しかし、不思議なことに関山と横走りの関を別の場所と考える向きが多い。その理由はエピソードとして述べられる『岩壺』から流れ出す泉の存在である。多くの論者が「横走りの関」と泉の存在を不即不離のものと考え、泉の存在が横走関に欠かせない条件として比定を試みている。しかし、これは全くの見当違いだろう。富士山周辺では一千年の間に噴火や地震など地殻変動は数限りなく、一本の伏流水が千年もの間、変わらず現代まで流れている方が不思議である。泉の存在は横走関の場所を特定する条件にはならない。それより「関」がどういう場所に作られるかが重要である。


関の立地条件


  関は人の往来を捕捉、監視する場所であるから、旅人が必ず通る、足柄峠など『峠』、不破の関のような『山間の隘路』、清見の関など『断崖の迫った海岸』などに設けられる。要するに簡単に関所破りができる場所にはない。現代は道路網が発達しているので本街道を通らないでも脇道はいくらでもあるが、平安時代には東海道など官道ですら、獣道のような山道、断崖絶壁の下の海岸を干潮を狙って駆け抜けるなどおよそ道とは言えない道が多かった。それを通らず、山に迂回し藪こぎして関所破りするなど自殺行為に近かった。これはおよそ現代人には想像もつかないことである。
横走関の初出は『朝野群載』(天暦十年956年)といわれ、実際に通ったという記録は『更級日記』が最後である。このことから、この関が存在したのは、かなり短かい期間であったと想像される。おそらく承平天慶の乱以後30年位ではなかろうか。横走関は関東から反乱軍が駿河に流入するのを防ぐために設けられた防禦城砦的性格の関だったのである。すぐ隣接する足柄関に城砦機能があれば、その必要はなかったのだろうが、足柄関は単なる通行監視所で盗賊にすら、容易に制圧されたからである。

  駿河の国における東海道は富士山の噴火のため時期により変化している。平安時代を通して官道である東海道駅路は愛鷹山南麓を迂回する道であったが、平安時代中期までは富士山と愛鷹山の間、十里木を経由する道も利用されていたようだ。もし関を作るなら、この場所は適地である。ところが愛鷹山北麓は富士山の火山活動のため、たびたび閉鎖され安定したコースではなかった。ここに横走関があったのではないかと言う人もいるが、移転したのではないかという説もある(みくりや物語(上))。
仮に移転したとしたらどこが関の適地であろうか?十里木から下ってきて富士山を左に見ながら裾野を御殿場に向かった場合、ただ、だだっ広い野原があるばかりで、隘路や川、峠など人の通行を妨げる自然障害物はない(そのため現在は自衛隊の演習場がたくさんある)。足柄峠に向かう人の通行を絞り込む場所は、裾野の台地から鮎沢川の低地に下る道が唯一の場所である。そこは横山遺跡のある場所(現在、小山高校敷地)である。


横山遺跡とはどのような集落であったか?


  小山高校の建設に先立ち行われた発掘調査で大規模な古代集落跡が明らかになっている。結果は横山遺跡発掘調査概報として報告されている。現段階では、遺跡集落の性格を断定するには至っていないが、注目すべき点がいくつか明らかになっている。


  1. 遺跡の年代は古墳時代から奈良、平安時代にわたり、人々の生活の場として存在
  2. 時代が下るにつれ規模が小さくなる
  3. 中世(鎌倉時代))以降は墓地となった

  集落の性格は断定に至っていないが、農村集落ではないことは明らかなようである。掘立柱建物が多い事、柵の設置があることから、官衙(役所)的性格が見られるが、硯、墨書土器など決定的な遺物がない。土器の出土は多いが、金属製品など遺跡を特徴づける遺物が少ない。


横山遺跡集落は横走関なのか?


  以上の知見をもとにサイト管理人松太夫の見解を述べたい。
鎌倉時代以降この場所は人が住まず墓地となった。調査によると400以上におよぶ墓穴と見られる土壙からは、人骨、歯など遺体遺物は一切出土していない。しかし、この穴は発掘担当者の見解では墓穴に違いないという。とすれば、遺骨は溶けて消滅したのだ。その原因はこの場所が度重なる富士山噴火の降灰で強い酸性土壌になっていたためと考えられる。であれば人骨と共に鉄も腐食溶解するので遺跡で鉄製品がわずかしか出土しなかったことを説明できる。遺跡の土壌pHが測定されていないのが残念である。幸いなことに鉄滓はガラス質であるため不溶性で残り、銅は緑青で覆われるので溶解せず銅銭は残った。
   この集落は地理的位置から交易を生業(なりわい)としていたと想像される。律令時代以後、郡衙、駅制の設置がすすめられたが、そのずっと以前から交易は行われていたようである。横山遺跡の位置は駿河、相模、甲斐の結節点で国家組織ができる前から自然発生的に交易の場となっていたと考えられる。その最盛期は遺跡の建物跡が最も多い古墳時代から奈良時代の間であろう。その後、掘立柱の倉庫風大型建物が増えてくる。これは律令国家の成立とともに、地方官衙が整備されていったことと関係がある。決め手はないが、この場所は横走駅家であり、更に一時的にも横走関が併設されていたと考えても無理はない。横山遺跡全景図を見ると柵を伴う区画にSH223という掘立柱の大型建物があり、前に用途不明の空き地がある。これは馬をつないで休ませる広場と見ても良い。大型建物は厩かもしれない。平安時代の建物は規模も数も小さくなって来る。これは駅制の衰退、廃止と交易自体の縮小が関係していると思われる。


交易集落の終焉は東海道の変遷で決定的となった


  延暦19~延暦21年(800~802年)の富士山大噴火以前、駿河、相模間の交通は足柄路のみであった。この時代にあっては横山遺跡集落はわが世の春を謳歌していた筈である。ところが延暦21年に箱根路が拓かれるに至り、翌年、官道は足柄路に戻ったとはいえ、箱根路という第二東海道が供用されるようになってしまった。横走関と思われる横山遺跡集落にとっては、そこを通る旅人が減り交易集落としての地位が低下する。決定的なことは長保元年(999年)の噴火で大淵丸雄溶岩流(富士南麓)のために十里木越えが困難になり、愛鷹山南麓迂回コースでは足柄峠までの距離が倍増したことである。これでは十里木越えコースでさえ箱根越えより距離が長かったのに更に長い距離を旅する必要があり、急ぎの旅や荷物の少ない旅人は自然に箱根経由で相模に向かうようになる。横山遺跡集落の凋落は決定的であった。平安時代末期の源平争乱で兵の移動が頻繁に行われるようになると、東海道の箱根路への移行は決定的となり足柄峠経由東海道は終焉を迎えた。


横山遺跡集落のその後と中世『竹之下』の関係


  横山遺跡集落は平安時代にすでに衰微を始め鎌倉時代以降は人が住んでいない。その跡地は墓地となった。では、住民の子孫たちはどこに行ったのか?
横山遺跡集落では元々農業集落的遺構は見つかっていないが、おそらく住民の一部は食料を生産するために奈良時代から既に山を下り、下の鮎沢川沿いの低地で農耕中心の集落を作っていたと考えられる。これが『岳(たけ)の下』、つまり山の下の集落である。鎌倉時代には『竹之下』と書かれるようになる。住民にとっては、元々の集落は『岳(たけ)の上』であり、本家筋の家があった。しかし平安時代中期を過ぎると交易に訪れる旅人が減り交易集落としての機能が失われ、食糧生産に不便な山の上に住む意味がなくなってしまった。ある時期、『岳(たけ)の上』の住民は全て山を降り、その地は死者を葬る村の墓地となった。現在遺跡地は小山町竹之下字『横山』と呼ばれているが、かつて『横走関の山(よこばしりのせきのやま)』と呼んでいたものが、長ったらしいので『横山』に短縮されたのではないだろうか。


『海道記』に現われた竹之下宿


  更級日記の約200年後、鎌倉時代、承久の乱後『海道記』の作者が「竹ノ下」宿に宿泊している(貞応2年1223年)。その竹ノ下の風景は以下のように描写されている。
『今日は、足柄山を越えて関下(せきもと)宿に泊まるべきに、日路に烏群がり飛て、林の頂に鷺ねぐらを争えば、山の此方に竹ノ下と云う処に泊まる。四方は高き山にて、一河谷に流れ、嵐落ちて枕を叩く、問えば是松の音。霜さえて袖にあり、払えばただ、月の光。寝覚めの思にたへず、独り起居て残りの夜を明す。』(海道記、中世日記紀行集、p.107、新日本古典文学大系:岩波書店)
  では、四方を高い山に囲まれ、川が流れている場所とはどこだろうか?
横山遺跡は台地の上だから山には囲まれていない。だから山を降りた山影で、且つ鮎沢川と挟まれた空間ではないかと想像される。横山遺跡発掘調査概報に掲載の第2図.周辺航空写真に推定位置を記入してみた。


更級一行が横走り関にとどまった目的は交易である


  更級一行は『関山にとどまりぬ』とある。これは休息のため1日2日泊まったという意味ではない。もっと長期間滞在したのである。何のためかというと商売のためである。この地理的位置は交易に絶好の場所である。海産物が取れる地域と山国の産物(鉱産物、獣皮など)が取れる地域が交わる村では黙っていても交換のために客が現れる。国司帰京の旅は任国の産物をたくさん持ってくるから、その地の長者にとっては「鴨がネギをしょってくるようなもの」である。下にも置かず一番の部屋を提供し歓待したに違いない。そして、国司一行が持ってきたものを吟味し、商売を始めるというわけである。国司達にしても、当然ここで喜ばれるものを持ち込み高く売りつけようとしたに違いない。
   一行がこの地に少なからぬ期間滞在したもう一つの理由は輸送である。当時、足柄峠は馬に荷を積んだまま越えられなかったようである。現在でもかなりの急坂があり単なるハイキングならともかく、輸送路としては難所であることは容易に想像できる。もっとも江戸時代には馬に荷を積んで往来したというから、登山道もそのころには改修されていたのだろう。ともあれ、平安時代には、馬で運べるところまで運んで集積し、あとは人の肩で少しずつ山越えするしかなかった。現代なら人足をたくさん雇えばいいが、当時は人口希薄な時代で雇うべき人そのものが少なかった。結局、同じ人足が何度も峠を往復してピストン輸送することになり日数がかかったのである。


横走りの関の現在地
小山高校建設時、横山遺跡が発掘調査された。これは古代横走りの関、あるいは中世竹ノ下宿に関連するものとみられている。前の道路は足柄路で右に行けば沼津方面、左に行けば足柄峠、または甲斐路に入る。
横走り関とはここだったのか?
JR御殿場線足柄駅を西に出て諏訪社の祠のある場所を目印に足柄街道旧道の細い道を上ってゆくと広い自動車道路に出る。更に上に登ると前に城の城門のようなものが見えてくる。左手は横山遺跡があった静岡県立小山高校で城壁のように見えるものはコンクリートの擁壁である。左手は崖で右手は山。往時はここが富士の裾野への入り口であった。横走りの関の有力候補地である。
鎌倉時代、竹之下宿
横走り関は平安時代で記録から消え、代わって鎌倉時代に竹之下宿がこの地域に現われた。その集落はかつての横走り関とどういう関係だったのか、その場所はどこであったのか。横山遺跡発掘調査概報に掲載の航空写真に『竹之下』の推定位置を記入してみた。

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