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しかすがの渡り(志香須賀の渡し)考

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志香須賀の渡りの現在地は往時の豊川河口であった


『参河と尾張となるしかすかのわたり、げに思ひわづらひぬべくをかし』にある『しかすかの渡り』がどこかという問題である。
文字通り読めば「三河と尾張の国境の川(境川)にある渡し」であるが、「しかすかの渡り」には三河の渡しとして伝承地があり、文献的にも三河の歌枕として登場する程、都人には知られた存在だった。 場所は飽海川(あくみがわ)、現在の豊川であり、平安時代には大きく河口部を開いた川であった。作者が国境と勘違いしても無理はないと思われるほど大きな川で風、波も高く印象的で国境と勘違いしたのである(河口部の幅は4㎞ほどもあったという)。 漢字を当てれば「志香須賀の渡し」となる。この件ついては、更級注釈書にも言及があるので、一つを紹介する。
メイン画像に平安時代以前の豊川水系の想像図を示す(あくまで想像で根拠はない)。このような状態が平安時代まで続いた。従って接続する東海道は図のオレンジ色の線となる。二川から坂津までは道路の痕跡が現代の道路にも残る。


新潮日本古典集成「更級日記」に見る注釈


(秋山虔 校注))p.28
宝飯郡豊川の河口にあった渡し場。この地名に副詞「しかすがに」(そうはいうものの、の意)を重ね合わせて興趣を覚えたもの。「三河と尾張となる」とあるが、実際はは宮路山の東南に当たり、三河の国の歌枕。『枕草子』「渡り」にもその名が見える。 その名どおり渡ろうか渡るまいかと悩んでしまいそうな所で、面白く感じた。(行けばあり行かねば苦ししかすがの渡りに来てぞ思ひわづろふ」(『中務集』)をふまえ、いかにもと頷いているのである。


柏木浜・志香須賀(かしわぎのはま・しかすが)の渡し(現地案内板)


豊川市教育委員会

柏木浜
古代の東海道の渡し場で対岸は豊橋市牟呂町坂津であったと伝えられる。
柏木とは「梶あげ」の転じたもので船の発着所である。
菟足(うたり)神社の祭神菟上足尼命(うなかみすくねのみこと)(雄略天皇の頃)は、この地に上陸され穂の国(当時の東三河の国名)の国造として治績を上げられたので薨後この地に祀られた。その後白鳳15年(686年)現在の小坂井の地に遷宮された。

志香須賀の渡し
律令期のもとで、都と地方を結ぶ道路が整備され駅制が敷かれた。三河国には鳥捕(ととり岡崎市矢作町)山綱(岡崎市山綱町)と渡津(わたつ豊橋市小坂井町)の三駅が置かれた。駅には馬が配置され中央や地方の役人が公用で往来する時に駅鈴が与えられ、これを持った者のみが利用できた。
 古代の交通は多くの困難をともなったが、特に橋のない大きな川は難所で、豊川(当時は飽海川あくみがわ)の「志香須賀の渡し」もその一つであった。東国への旅行者は、この渡津(わたつ)駅から船で対岸の飽海・関屋・城海津(しろがいつ)・坂津あたりへ上陸し、高師山を経て遠江国(静岡県)猪鼻駅(新居町)へ向かった。当時の豊川河口は、川幅が広く、波風が強い難所で、増水や強風で何日も川辺で待たされたという。
 いま、渡津駅があった位置は明らかではないが、豊川の流路の変化によって位置も変わったであろうが、平井から篠東付近の間に位置していたと推定され、柏木浜も「志香須賀の渡し」の渡船場の位置を示す一つの地点として意義がある。


鎌倉時代に渡し場が豊川上流へ移転したのはなぜか


律令時代から少なくとも平安時代中期まで存続した志香須賀の渡しは廃止されたようで、鎌倉時代になると上流に新たな渡しが設けられている(鎌倉街道ルート)。その原因は明らかにされていないが、おそらく自然災害による東海道ルートの不安定化であろう。渡し場の場所そのものは微高地に設けられているのでその後も水没することはなかったと思われるが、接続する道路が洪水により流失湿地化するなどして維持できなくなったことが考えられる。
  そもそも、奈良時代に河口部に渡しが設けられたのはどうしてであろうか。沖積地の場合、確かに海岸部は平坦地が多いので接続道路が設けやすい。しかし川幅は広いし海からの波風は強い、一体どうしてこんなところに渡し場を設けたのだろう。その理由は豊川(飽海川)が暴れ川で流域が安定せず、その結果、洲があちこちにできて船による渡河が困難で河口まで下らないと安定な渡河航路が設定できなかったことにあるのではないだろうか。
天竜川も河口が広がり同じような川であり、渡しも複雑である。流路がかなり整理された江戸時代でさえ、安藤広重の東海道五十三次「見附」に見るように中州で船を乗り換えている。平安時代には渡船数が少なく中州で船を乗り継ぐ余裕がないので河口を大きく回って川を渡っていたのだろう。時間がかかり非常に不便だったと思われる。


歌川広重東海道五十三次見附に見る渡船の実態
大きな川は洲が多く船で渡るにも困難が多い

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