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『三河古道と鎌倉街道』に見る「二村駅家」の探索

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愛知県岡崎市在住の郷土史家、武田勇氏は『二村』について重要な論考をされている。その著書は私家版のため容易に入手することが出来ない。地元愛知県内の図書館にいくばくかが所蔵されている程度と思われるので、一般の人が閲覧する機会はほとんどない。そこで関連部分を以下に収録した。
武田勇『三河古道と鎌倉街道』(昭和51年9月20日発行、私家版)


二村は地名か山名か


p.99
  尾張国二村山は、今愛知県が建てた名勝碑があって、公認のものであり、いっぽう三河国の二村山は、学界の定説らしく、最近の高等学校用古典更科日記にも、これを三河国としその掲図さえ上げられている。
  この大きな断層は何して出来た。これを年代の逆に追及して行くと、その原点は更科日記解釈そのものとなる。
  その原点、九百余年前の更科日記原文の解釈、問題はこの一点にある様で、その日記の野宿地「二村の山の中」とあるのが断層の生じた起源で、原典に二村山とはしていない。
ここに三河国の詳細な二村山研究の実際からすると、是れは何うしても三河国とはならない。と言ったら、何を小癪な田舎者めといわれようが、田舎者であればこそ、二つの検定書の二村山のその位置が、違っているのさえわかる訳である。
  こうして三河国の内でも定説のない、二村山の古い記録は、源平盛衰記と西行の歌、それに橘能元の歌で、それでは何うして、これ等が二村山を三河国としたか、となるが是れ等は何れも、迷い易い更科日記の文に迷わされたものであろう。
  盛衰記はそれを高師、二村と記し、その位置は誰もつかめないが、橘の歌は紛れもない宮路山の歌らしい。然し宮路山と二村山と重なっては説明がつけられないので、後の人が法蔵寺裏山あたりに考えたようである。これが今学界で考えられているもので、西行の歌等は西行自身その位置を終に、掴むことが出来なかった様である。
  そこでその法蔵寺裏山である。
  この山道の実際からすると、ここは更科日記一行、先記の様に特別な人夫の助けを借りなければとても越せない。
  この特別人夫を頼んだと思われる区間は、山路連続の山綱駅家跡迄八キロの間である。とすると、その途中の法蔵寺裏山の辺りの野宿等は到底考えられない。殊に時はちょうど枯れ草の時で、焚火の危険が特に多い。

また二十数人が想像される一団の野宿は当然相当広さの、場所を必要とする。然し法蔵寺の裏山辺りにはそうした場所はない。只あるのはこの山地を通り抜けた、山綱駅の地であるが、日記の二村とは地名が全く異なる。
  ここに日記には実に重要な事を記している。それは庵のかたわらの柿の木である。
  柿が熟れて落ちたのを競って拾った。これは山間自生の渋柿ではない様である。とするとそれが熟れて落ちる迄放置してあると言うことは何を意味するか。   時は駅家滅亡後僅か五~六十年、誰も手を付けない官有地、駅家跡地と言うことにならないか。
  かくその柿の木が渋柿でないとすると、日記の「二村の山の中」とあるのは、狭義の意の山の中と言うことではなく、これは四方山に囲れた広義の意味の山の中と言うことになる。とするとこの日記の二村は、山名ではなく、地名と言うことにもなって来る。
  最近の古典全集更科日記の解説には、迂闊にも「二村山の山の中と、原典にこの山の一字を加入しているが、是れは言語同断で、二村の次の「の」一字は明らかに、これが山でないことを意味している。
  かく是れを地名とすると、尾張国二村駅地はまさにその儘の名称となる。然し現在は「沓掛」となり、鎌倉街道六十三次の宿名となっている。
  また元駅家続きの二村山も、この地では今「峠山」と言っているが、この二村の名称に拠る限りでは、二村駅地の地名が先で、二村山の山名は、二村と云う所の山と言うことで、この山名は恐らく駅家設置後のものであろう。
  兎に角更科日記原典の「二村の山の中」とあるのは明らかな地名で山名ではない。
付言…先文(源平)盛衰記の「高師二村」とあるのは、これ迄誰も解釈がつかず、筆者もその位置がつかめないと記した。考えあぐねているうち夢うつつに浮かんだのは、これは、村と川の誤字であることに始めて気が付いた。つまり「二村」とあるのは「二川」の誤字であろうと。理由は当時天泊原の地名はなく、街道通路は、高師ヶ原から今の二川に続いていたようである。
これは、自信を以て断言してもよいと思う。
 


尾張国の二村駅


p.32
そこで逆戻りになるが、尾張国の二村駅家の地に行ってみた。
 この地は今は市となったが、そのころは豊明町沓掛の地で二村の駅家名が二村山となって名をなしていたが、それさえ今は峠山となっている。
 行って見ると沓掛の地は、名古屋鉄道豊明の駅から二「キロ」強もある不便な所で、行き着いた所は沓掛本郷手前に「宿」と言う、僅かちいさい部落がある。


 なる程、これだな、と思って望めて見ると、地形は台地突端の高地で、民家が一部を限っている。これは地形的にも、環境的にも、嘗ての駅家付随の別宿の地に適った所である。
 なお、行くと沓掛本郷の地に至り、その地をくまなく歩み、二村山麓迄駅地らしい所を探し求めた。がそれは無駄であった。然し呼び入れられた慈光寺は嘗ての沓掛城の一部らしく、本堂裏には古墳とみられるものもある。
 頼んで寺にある土地宝典図を借り、辺りの詳細図を写す。後でわかったことであるが、この沓掛城が桶狭間の戦の前夜、今川義元が宿った所であるらしいようである。   沓掛の「宿」の地名に曳かれて、再度その地に至ると運よく、下高嶺部落の塚本(名古屋愛知商業高校)という人の協力を得ることを得た。
 それで二人連れ立ち、皿池辺りを一周し、最後池辺に立った塚本氏いわく「この池だ」この用水池の増勢は明らかでないにしても、左程古いものではないと。
 なる程あり討つことだ。池の地積は一町八反歩「180アール」、台地と台地の間を一丈幾尺の堤塘で区切ったもので、皿池の名称は池底が平坦であることを意味する。殊に池の上手に続く古地枚は「マヤド」である。漢字にすれば馬宿、これは駅家の通称名「うまや」とならないか。
 望めて見ると池辺に古墳らしいものが、半ば水没していて現状はあまりに変り果てているので、駅家の故地には誤りない、とは思われても、今はこれ以上何うしようもない。


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