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源平盛衰記に登場する『二村』は文脈から考えると『二川』の誤写か

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源平盛衰記に登場する『二村』は置かれた文脈から考えると『二川』誤写の可能性が高い。

更級日記にある『ふたむらの山』が尾張でなく、三河とする説がある。その一つの論拠が源平盛衰記の於巻第二十七で語られる「高志二村」にある。これが妥当な論拠かどうか検証するために、該当箇所を引用をする。

引用元:
源平盛衰記(夕陽亭文庫 kindle版 源平盛衰記(七))於巻第二十七
(本文には振り仮名があるが、難読語以外は省略。また旧漢字は当用漢字に改めた)


墨俣川合戦附矢矧川軍の事

 

  養和元年三月十日、頼朝追討のために東国へ下りし頭中将重衡、権亮少将維盛已下七千余騎は、尾張国墨俣の西の河原に陣を取て、東国源氏を禦(ふせ)がんとす。新宮の十郎蔵人行家は、千余騎の勢にて、東の河原に陣を取って、西国の平氏を下さじとす。両方を隔て控えたり。故下野守義朝の子息、常盤が腹の子に、卿公(きょうのきみ)義圓と云う僧あり。これは九郎義経の一腹の兄なり。十郎蔵人に力を合せよとて、兵衛佐殿千余騎の勢を附られたりけるが、これも墨俣河原に馳附て、十郎蔵人の陣二町を隔て陣を取り、平家は西の河原に七千余騎、源氏は東の河原に二千余騎、明る十一日の卯の刻に矢合と聞ゆ。
   ここに行家と互に先を心に懸たり。卿公(きょうのきみ)義圓は、「十郎蔵人に先を駆られては、兵衛佐に面(おもて)を合すべきか」と思ひて、人一人も召具すことなし。ただ一人馬に乗て、陣より上二町ばかり歩ませ上て、河を西へ渡す。敵の陣の前、岸の下に控えたり。「行家夜の曙に、鬨(とき)を造て河を颯(さっ)と渡さんとき、ここより義圓、今日の大将軍と名乗て先陣を駆ん」と思ひて、「東や白む夜や明る」と待居たり。平家の方には、「源氏夜討ちにもこそ寄すれ」とて、夜回を始て、十騎二十騎ばかり、手々に続松(たいまつ)捧て河のはたを見回りけるに、岸の下に馬を引立て、その傍らに人一人立ちたり。夜めぐりこれを見咎めて「何者」と問ふに、義圓少も騒がず、「これは御方(みかた)の者にて候が、馬の足冷やし候」と答ふ。「御方(みかた)ならば兜を脱いで名乗れ」と云ひければ、馬にひたと乗て陸(くが)へ打上り、「兵衛佐頼朝の弟に卿公(きょうのきみ)義圓と云ふ者なり」と名乗て、夜回の中へ打入て、竪様横様に散々に戦ふ。三騎討取て二人に手負せて、義圓ここにて討れにけり。
 十郎蔵人これをば知らず、「卿公(きょうのきみ)や先に進むらん」と思ひて、使を遣して見せけるに、「大将軍見え給はず」云ければ、さればこそとて十郎蔵人打ち立けり。千騎野勢を、八百騎をば陣に留め、いま二百騎を相具して、河を颯と渡し、平家の陣へ駆入りたり。夜の明方のことなりければ、いまだ世間も暗かりけり。平家は敵多勢にて夜討に寄すると心得て、火を出して見ればわづかに、二百余騎と見て、「少勢にてありけりや」と云ひて、七千余騎入替入替戦ひけり。行家も少しも引かず、大勢の中に駆入て戦ふほどに、主従二騎に打なされて、河を東へ引退く。行家は赤地の錦の直垂に、小櫻を黄に返したる鎧著て、鹿毛なる馬に黄覆輪の鞍置て乗たりけり。大将軍とは見えけれども、平家は続いても追はざりけり。
   行家が子息に悪禅師と云ふ者あり。尾張源氏泉太郎重光ら同心して、七百余人筏にのり、夜半ばかりに渡りより上を潜かに越えて、夜討ちせんと向けるを、平氏の軍兵豫てこの由さとりければ、渡らんと志すところをば引退て、思ふ様に西の岸の上におびき出して、中に取籠め戦ふ。宵のほどは雨烈しく降りけるが、夜半ばかりには雨降らざりけれども、雲の膚天に覆て、闇きこと目の前なる物もつゆ見分べくもなかりけるに、ただ鬨の声をしるべにて、両軍乱合(みだれあい)て相戦ふ。甲(かぶと)の鉢を打太刀の打返るとき、火の出ること、稲光の如くなりければ、自ら明かに、便(たより)となって、敵を取る輩もあり。多くは共討にぞ亡ける。弓を引き矢を放つことは、何れを敵とも見分ざりければ、太刀を抜いて、取組刺違へてのみぞ死ににける。源氏の兵三百余人討れにければ、残る輩(ともがら)河のはたへ引退く。
 筏に乗らんとしけるを、平氏の軍兵追懸て、筏の上にて戦いけり。果ては筏を切破りければ、空く河のはたへ命を失ふ者その数を知らず。蔵人頭重衡朝臣の手に、二百十三人討取てけり。虜(いけどり)には悪禅師、和泉太郎重光、同弟高田四郎重久を始として、八人とぞ聞えける。維盛朝臣の手には七十四人、通盛の手には六十七人、忠度の手には二十一人、知度の手には八人、讃岐守維時の手に七人、已上三百九十人、首、河のはたに切懸たり。
   即ち首の交名に注して京へ奉りたりければ、平家の一門寄合せて悦ぶこと限りなし。    十郎蔵人行家は、墨俣川の軍(いくさ)に打負ければ、引退て墨俣川の東、小熊と云ふところに陣を取る。平家は七千余騎を五手に分け、一番飛騨守景家、大将軍にて千余騎、河を颯(さっ)と渡して小熊の陣に押寄せたり。一時戦うて射白まされて引退(ひきしりぞ)く。二番に上総介忠清、千騎喚(をめ)いて募(かか)る。源氏矢衾を造て射ければ堪へずして引退く。三番に越中前司盛俊千余騎、轡(くつばみ)を竝べて押寄せたり。源氏矢じりを揃へて射ければ、暫し戦て引退く。四番に高橋判官長綱千騎、しころを傾けて音(こゑ)を挙て押寄せたり。源氏指詰引詰散々に射ければ、これも叶わずして引退く。五番に頭中将重衡、権亮少将維盛、二千余騎にて入替たり。進み退き追つ返しつ、一味同心に揉に揉でぞ攻めたりケル。十郎蔵人行家も、命も惜しまず面も振らず、「平家の大将ぞ。漏らすな余すな」とて、これを最後と戦う足り。矢叫びの音馬の馳違ふ音隙ありとも聞こえず、源平旗を差竝て、勝負牛角に見えたり。

  一陣景家、二陣忠清、三陣盛俊、四陣長綱、四千余騎、重衡、維盛二千余騎に押合せて、七千余騎が一手になって、入替入替攻めけるに、行家心は猛く思へども、無勢にて防ぎかね、小熊の陣を落されて、尾張国折戸の宿に陣を取る。平家は隙なあらせそとて、勝に乗て攻下りければ、折戸をも追落されて熱田宮へ引退き、在家を壊ち垣楯を掻き、ここにて暫く禦ぎけれども、熱田をも追落されて、三河国矢矧川の東の岸に、城構して陣を取る。平家続て攻下り、川より西に控へたり。当国額田郡の兵どもも馳来り、源氏に力を合せ支へたり。
   十郎蔵人謀(はかりごと)を構ふるに、年老たる雑色三人召寄せ、次第行藤(むかばき)に蓑笠具し、粮料馬槽負せて、京上の夫に作り立て、心を入て平家の陣の前をぞ通したる。平家夫男を召留て問ひけるは、「源氏軍(いくさ)に負て東国へ落下る。これいかほど延ぬらん。その勢はいかほどかありつる」と云ふ。夫男申けるは、「矢矧川の東の陣の打ちの勢は争(いかで)か知り侍るべき。落下り給ひつる勢はわづかに四五百騎、大将軍とこそ見え給ひけり、こころりいくほど延給はじ」と。平家また問ひけり、「さて東国よる勢はなしや」と。夫男、「勢は雲霞のごとく上り侍る。先陣は菊川、後陣は橋本の宿、見附国府に着く。ほど近き高志二村は、軍兵野にも山にも、隙ありとも見えず」と云ひて過にけり。平家このことを聞て「いかがあるべき。東国の大勢に取籠られなばゆゆしき大事。一人も遁れ難し」とて、取る物も取敢ず思ひ思ひに逃上る。大将軍行家は、平家を謀反して人を方々へ馳遣す。「落上る平家を一矢も射ざる者は、源氏の敵ぞ」と披露ありければ、美濃、尾張の兵ども、後勘を恐て追懸追懸散々に射る。平家も返合せ返合せ戦ひけれども、落武者の習なれば、ただ身を助けんとばかりの防矢(ふせぎや)にて西を指てぞ落行ける。


解説 ー源平盛衰記は鎌倉時代人の地理感覚で書かれている


この墨俣川合戦の記事が鎌倉幕府の正式記録である『吾妻鏡』の記事を基にしていることは明らかである。しかし、大幅に脚色が加えられ面白い軍記物語となっている。元々、源平盛衰記は平家物語の異本とされていたが、異本というには多くのエピソードが加えられているので、一つの別の軍記物語という扱いがされている。
問題になっている部分は、以下に示す『吾妻鏡』に言及がない創作と見られる箇所で、史実ではない。源十郎行家が六百九十余人という戦死者を出しながら、見せ所もなく無様に敗走したので、おそらく源氏びいきであろう作者が付け加えたお話である。
  『二村山』の話に戻ると、この部分は史実ではないと云うものの、鎌倉時代、室町時代の三河国を知る人々の地理感覚を表しているので重要である。矢矧川から「ほど近き『高志二村』は軍兵野にも山にも隙ありとも見えず」と書かれている事から高志と二村は隣接している地域であることがわかる。しかしこの地域で「高師の原」に隣接するのは『二川(ふたがわ)』であって『二村』ではない。郷土史家、武田勇氏はこの点を指摘し、二村は二川(ふたがわ)の書写の誤りと断定された。毛筆で書かれた川と村は誤読されやすい。よって、源平盛衰記を『二村』三河国説の論拠にするのは難しい。
同時にこの挿話は遅くとも平安末期までは「志香須賀の渡し」が機能していたことを暗示している。平安末期の東海道がいわゆる「鎌倉街道」に移行していたならば豊川上流部で渡河するので高師の原に兵が集結することはないからである。
 


吾妻鏡に見る墨俣川合戦


引用:全釈吾妻鏡(一)永原慶二監修、貴志正造訳注(人物往来社) p.102 
治承五年三月小 十日丙戌 (ユリウス暦1181年4月25日、グレゴリオ暦5月2日)
  十郎蔵人行家(武衛の叔父)・子息(蔵人)。太郎光家・同二郎・僧義圓(卿の公と号す)。泉太郎重光、尾張・三河両国の勇士を相具して墨俣川の辺に陣す。平氏の大将軍頭亮重衡朝臣・左少将維盛朝臣・越前守道盛朝臣・薩摩守忠度朝臣・参河守知度・讃岐守・左衛門尉盛綱(高橋と号す)・左兵衛尉盛久等、また同じき河の西岸にあり。晩に及びて侍中(行家)計を廻らし、密々に平家を襲はんと欲するのところ、重衡朝臣の舎人金石丸、馬を洗はんがために墨俣に至るの間、東士の形勢を見て、奔り帰りてその由を告ぐ。よって侍中いまだ出陣せざるの以前、頭亮の隋兵源氏を襲ひ攻む。縡楚忽(ことそこつ)に起りて、侍中の従軍等すこぶる度を失ひ、相戦ふといへども利なし。義圓禅師は盛綱がために討ち取らる。蔵人次郎は忠度がために生虜らる。泉太郎(重光)・同弟次郎(重家)は盛久に打ち取らる。このほかの軍兵、あるいは川に入りて溺れ死に、あるいは傷を被りて命を殯(おと)す。すべて六百九十余人なり。


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