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駿河国 横走郷、横走駅、横走関について

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駿河国にあった横走郷、横走駅、横走関について


  富士の裾野に『横走り』という他の地方にない形容詞が付いた古代地域名がある。ところが、いずれも具体的位置がはっきりしない不思議な名称である。これについては、古くから議論があるが、いまだに結論を見ていない。この問題については、大学の研究者より地域を良く知る郷土史家の方に地の利がある。地域出版の書物である『みくりや物語』ではこの問題を深く掘り下げているが、地元以外ではなかなか目にすることが出来ないので、関連章を以下に引用する。

出典:『みくりや物語(上)』p.11~ 33 勝間田二郎、㈱タウン社(平成2年)
※地図「郷と街道」、「関と駅の図」は元図の線が細く見えずらいので地名、線太さを修正した。


謎の横走り


横走郷(よこばしりのさと)


  横走りというのは、富士を横に見ながら麓を横に走っていく、というので横走りと言われている。これに対して、富士の根より真っ直ぐ走るのを直走(すばしり)といい、今の須走の語源になったものである。
 冨士の麓を横に走るといえば須走の高いところから印野(いんの)にむかって走り下るさまを連想するし、一方では愛鷹山の麓の方から印野にむかって走り下ることも考えられる。
   となると、その道すじのあたりに横走郷(よこばしりのさと)があったことは、おぼろげながら想像できる。
夫木源仲正(ふきもとなかまさ)という人が、
   いかにせん すぐにはいかで足柄や 横はしりする 人のこころを

と歌っている。富士の麓から足柄へぬけて箱根の山越えをしたいのだが、行けどもいけども麓の道は横手に長く、足柄山が見えるのにその方へま直ぐ行かないという、もどかしさを良く表している。
 それと同時に、なにか横走郷の位置を暗示しているかのようである。承平年間(931~938)に書かれた、わが国で最初の漢和辞典であるといわれる和名抄の中に、駿河郡に十一郡のあったことが記されている。それは
      矢集郷(やつめのさと菅沼所領)  小松郷(上下小林)  古屋郷(増田ましだ)  横走郷(印野)  永倉郷(ながくら長久保)  柏原(かしわばら)郷(船津)  玉造郷(香貫)  駿河郷(黄瀬川西)  山崎郷(青野柳沢)宍人(ししど)郡  (獅子浜)宇良郷(間門諏訪)
   そうは言うものの、横走郷が、もとの印野村であるとは決めつけられない。昔の郷(里)といえば、だいたい五十戸ぐらいの集落を指し、一戸は三家族を単位としていたようである。つまり一戸には十五人ぐらいが住み、そのうち五、六人が租税を収められる一人前の扱いであった。それからして郷の人口は七百人からあったことになる。
   延宝八年(1680)に印野村のようすをお上に書いて出した村鏡には、本村・時の巣、萩原(おぎわら)・北畑を合わせて六十四戸、人口四四九人であると記されている。となると、それより九百年の前のことになるので、横走郷はもっと広い地域を威)指していたと思われる。さらに和名抄に、
訓興古波止里(よこはしりとよむは)今(いまの)足柄村北郷等相模酒匂川ノ源にアリタル山中是也
と記されている。
 この酒匂川の源流といえば須走、水土野(みとの)の山中ということになり、このあたりより印野荻原(小木原おぎわら)にあたる地域が横走郷であったのではなかろうか。このことを裏付けするのには、古えの人々が往来した古道を考える必要がある。
駿河国誌には「横走は須走浅間神社に続いて甲州(山梨県)と相州(神奈川県)との間道にその名残る」と記してあるが、往時の甲斐路のことである。
   その甲斐路は須走浅間神社縁起によると、須走登山道から大日堂をへて横走の関から十里木を結ぶ道路であったことが記されている。さらに往古の道を辿ると滝口角平は、かれの古記随筆のなかで、
天皇第十二代景行天皇ノ御時日本武尊駿河ノ賊ヲ平ゲ富士足鷹ノ間ヲ過ぎギ竹之下ヨリ坂本ニ下リ給フ富士郡吉原ヨリ足鷹富士ノ間ハ唯一ノ官道ニシテ天皇六十四代円融天皇(969~983)御時マデ官道ナリシナリ
と書いている。つまり九八〇年ごろまでは竹之下からあがって荻原を通り十里木越えをする道が官道であったというのである。
 すくなくとも天応元年(781)以前には主として、甲州の交通は吉原から十里木を越えて小木原・加吉(かきつ)・河口へと通じたもので、これが甲斐路である。そうすると現在の138号線、つまり最近までの甲州街道は須走を通り籠坂へぬけて河口へと出るが、往時の加吉というのは、小木原から中畑を通り中日向を上って明神峠を越えたあたりにあったと思われる。
   たしかに武田信玄が元亀元年(1570)の暮れ、深沢城に迫ったときは、ズナ峠を一気に越えて中日向を通り竹之下に布陣している。籠坂峠を越えずに明神峠(ズナ峠)を真一文字に下り立ったものである。これが往古に甲州へ通じる道であったのかも知れない。
   さらに足柄路は小木原から桑木・新柴(あらしば)を通り足柄山を越えて相州へと出るようになっていた。これらはみな十里木を越えてきたものである。鎌倉中期の僧であった先学が著した万葉研究書の仙覚抄の中に、
   横走の関は富士足高の間なり、さてこの道を昔の旅人通りける。重服觸穢(ちょうふくしょくわい)の者ども朝夕通りけるを足高の明神いとはせ玉ひて、今のうきしまが原は南海のなかに浪にゆられてありけるをうちよせ玉ひてけり。さてその後今の道は出来にけりとなむ申伝へ侍也
   と記されてある。つまり浮島ヶ原は太平洋の浪に洗われていたということである。それが次第に沼地となっていったもので、吉原からはやむなく十里木越えを強いられ、それが官道となっていたというのである。
   ところが天応元年(781)に富士の大噴火があり、十里木越えが難しくなり、それを機会に足高(愛鷹山)の南麓っを通るようにして、それを官道とすることにした。しかしこの道は足柄路へでるには、わざわざ沼津へと宇廻(うかい)するので、私的の旅人や商人たちは従前のように十里木越えをしたものである。
   それが、またまた二十年後の延暦十九年(800)から同二十年・二十一年と噴火があり、こんどは足柄路がふさがれてしまった。そこで二十一年に筥荷途(はこねみち)(箱根路)を開いたが、その翌年には足柄路が復活して官道となった。けれども一たん通れるようになった筥荷途は便利なので、旅人は相変わらずこの道を利用した。これは十里木越えと同じである。
   したがって平安時代(794~1185)からの交通は加島付近(蒲原)を鈴川付近(柏原)に出て、愛鷹南麓を通り下長窪(永倉)・神山(こうやま)、そうして御殿場へと通じたのである。
   このように、御厨(みくりや)を通る道は、富士山の噴火のたびに変わり、また人びとの 住む家集落までも移っていったのである。その證(あかし)として国道138号線の須走地先のニシザワ遺跡からは、弥生時代の手焙(てあぶり)土器が発見されて話題となり、いまは重要文化財に指定されている。
   そこから南にあたる東富士ダムの東側に笹倉遺跡があり、そこからも弥生時代の椀形の土器片が出土した。
   それから滝ヶ原駐屯地に寄った西沢山の麓に伽藍沢というのがあり、宝永山噴火の前年 (宝永3年)までは、いまの善龍寺があったといわれている。となると、このあたりに中畑の人びとが住みついていたとおもわれ、印野からここを通って須走へぬける交通路としてにぎわったことであろう。
   それが噴火のたびに、人びとは下へ下へと移住して、現在の集落を作ったものである。またそれと似たことが大野原の十文字辻でも言える。いまでこそ荒涼とした演習地になっているが、裾野市立富士山資料館には宝永の砂降り以前の絵図が所蔵され、それには十文字辺りに十軒の家が描かれているのである。
だから、横走りの里は、たび重なる富士山の砂降りによって、幾枚も厚いベールにおおわれて、まぼろしのように謎に包まれてしまったのである。現在ある姿から推理するには、常識を離れた観察の眼が必要なのではなかろうか。


 

横走の関(よこはしりのせき)

 

  さて問題の横走りの関である。関とは関所のことで、七世紀半ばに律令国家が形成されてから奈良時代を最盛期として、平安初期の十世紀ごろまで続くことになる。国境や要路に設けて防備にあたるとともに、通行人や貨物などの取り調べをしたが、律令体制のもとにあっては、人びとが納める貢租がとどこりなく平城京に送られるようにすることが狙いであった。
   さらに公務をおびた官吏の旅行に不便がないようにするのが目的で、一般の民衆に旅の便宜を与えるためのものでなかった。また民衆は他国へ旅に出るなど、めったなことではしなかったのである。
   このように関は官道に設けられ、しかも関は駅ほど大掛りなものでなく、柵をゆって通路をふさげるようにし、数人の関守りがいて、その人たちが寝食できるていどの住居があればよかった。だから当初は竪穴住居でもよかったのである。
   こうした関は駅から、のろしなどをあげて見える範囲の所にあったことが分かる。他国の関は駅から、のろしなどをあげて見える範囲の所にあったことが分かる。他国の関や駅の場所は、案外はっきりとして後世に伝えられている。清見関と息津(おきつ)駅、足柄関と坂本駅といった工合であるのに、横走関と横走駅の場合は、はっきりしていないのである。そのため今まで多くの人びとによって、いろいろに取り沙汰されてきた。
   それは、何回もふり積もった富士山の砂に埋もれたからであろう。しかしかんがえようによっては、いままで残されてきた文献や考古学的な遺跡によっていろいろ推論することは、また楽しいことでもある。
 さて、横走の関があったという。そもそもの事のおこりは更科日記にある。その中に、
   足柄を越え関山にとどまりぬ。是より駿河なり。横走の関の傍に岩壺という処あり。えもいはず大なる岩の上はふなるなかに穴のあきたる中より出る水の清くつめたきこと限りなし。
と書いてある。
   この更科日記は、官吏をしていた菅原孝標が十三歳の娘をつれて寛仁四年(1020)に、任国であった上総(千葉県)を出立して京へ上ったようすを、後世になって娘が夫の橘俊道(としみち)と死別した康平二年(1059)になってからのことである。そのため、信憑性薄いものとみてよかろう。
   しかし前述のように、天応元年(781)までは富士と足高の間を通る道が官道となっていて、印野の荻原(小木原)へと出たのである。つまり昔の東海道であった。
   たまたま、荻原に清水がこんこんと湧きでているので、後年になって源頼朝が富士の巻狩りにきたおり立ち寄った、建久四年(1193)のことで、
   鬼茫ヶ原 分け行き見れば まま下に   清水にうつる 夏の夜の月
  と呼んだと言われている。そうして更科日記の岩壺の清水が、ここではないかと見立てられたのであろう。
   しかし菅原孝標らが旅したころは、東海道は愛鷹山の南麓でに移っていたのであるが、菅原父娘(おやこ)はその道を選ばずに、近道の荻原をとおって十里木越えをしたのであろう。
   とくに郷土史家の池谷源吉翁は、深沢の佐藤家に伝わる文禄四年(1595)の古文書の中で、
    定
一、駿河国駿河郡御厨、富士山・足柄山根本あいずか原の内、字深沢、先年、六郎仁一村開基の処、足柄村と称えなされ候、村用水、先年武田氏書き出し御証文の旨、相違なく御添え書き遣われべきもの也。仍て(よって)富士山根本横走ヶ原にて之あり、大日ヶ原と申す所ふじより出口、これより元水(もとみず)引き下げ(後略)

と記されていることからして、大日ヶ原は横走ヶ原の一部で横走の位置を知る重要な資料であるとしている。大日ヶ原は須走の大日堂がある辺りである。
   さらに横走は須走街道より山麓を横に走るということで、印野小木原から王子ヶ池(須走)付近へ走る路線ではあるまいかとして、横走の関は印野にあるという説を主唱したのである。
   ところが同じころ、静岡県教育課に県史編纂の主事補をしていた皆川剛六は、昭和九年発行の雑誌「歴史地理」の中で、それなりの説を立てた。
   駒門(こまかど)に関屋(せきや)というのがある。関屋といふ言葉は源氏物語・更科日記等にも見え、正しくこの時代の用語である。関屋塚とは横走関趾を指すものに非ざるか。
   さらに、
   岩壺の清水とは、駒門付近中清水(なかしみず)・湯船(ゆぶね)等が現在、駿東郡北部に於ける有数の冷戦湧出地であることより考えて、おそらく「更科日記」時代にもこの地、横走関の傍の清水の流出するところがあり、それを名付けたものと思はれるのである。
もし憶測が許されるならば、「大なる岩の上はふなるなかに穴のあきたる中より」とは駒門の風穴を指すのではないか。
といって、駒門あたりに横走の関があったと主張するのである。また伊豆韮山の中学校で教べんをとっていた石井広夫は、
   往来便なる処にありしなるべし。西十里木・足柄山、南伊豆国より甲斐国へ通ずる辻に 関ありたると思うふ…。
   今東田中の方正しく伊豆より甲州へ通行する道を須走街道と言ふ。横走街道の行向所(いきむくところ)東田中便船塚の辺を現に今も横道また横通りと云又其近くに大いなる亀の形成る石の下より冷水流出する所もあり。
として、東田中に関のあったことを主張している。
  このように謎の横走郷にあった横走の関の位置は、多くの人びとによっていろいろに説かれてきたのである。なかでも荻原に湧きでている「岩下の清水」の所にあったとする印野説は大部分の歴史書によって支持を受けている。例えば駿河志料に、そのことが記載してある。

   里人いう、印野は古えの横走郷にて、すなわち横走関跡也。
さてこの地を通行せし古駅路は今泉・吉原より、富士・足高の間、十里木・印野へ出て竹之下・足柄越えせし古道也、この関の権輿(けんよ…はじめ)や廃されしことも古書に見えず。
朝野群載いう、東に相模国足柄関を承け况に(ここに)国内(駿河国)に清見・横走の両関を帯ぶ。清少納言絵草紙に、関は横走関・清見関これなり、更科日記いう、横走の傍に岩壺という処あり、もっとも大きなる石の四方なる中に、穴のあきたるなかより出る水の清く冷たきこと限なし。
藻塩草いう、駿河国には富士と芦立(足高)とて二つの山あり、この両山の間は東海道の駅路なり、そのあわい(間)に横走の関あり
また総国風土記には、「この『岩下の清水』のそばに横走井神社があり、」
と記している。
この祭神は級長戸辺神(しなとべのかみ)で、風の神さまである。湧き水には水神が常識で、それと風神がどうして祀られたのか不思議である。
   後世になって、郷土史家の赤池倍夫(ますお)が書き残した歴史手帳には、須走にある大日堂はむかし横走井神社であったと記してある。それならば、篭坂を越えて吹きすさぶ角(つの)どり(北風)をおさめる風神として、ふさわしいものとうなずけるのである。また須走に横走井神社があったということは、横走郷の位置を示唆するに足るものである。
   はたして横走の関はどこに、いつごろから置かれ、いつごろまであったのであろうか。息津(おきつ興津)の清見崎に清見関というのがある、ここの駅路は太平洋の浪に洗われて、何回となく変わっている。
   清見かたむかしの関の跡たえて あらむ方より通う旅人
と歌われるほどであって、横走の関も富士山の砂降りで、少しは変わったと思われる。
   横走の関が文献に初めて現れるのは朝野群載で、天暦十年(956)の事である。つまり、この時代に横走の関が実在していたことは疑いないことである。
   大宝元年(701)に大宝令が制定され、中央集権の体制が整えられつつあり、地方には国司が派遣された。駿河国は七郡に分けられ、東辺は駿河国といわれて十一の郷に分けられた。初期には里といったが、霊亀元年(715)に郷と言われた。
   ということは、奈良時代もはじめごろには横走郷が存在して、横走関があったと思われる。そうして十里木越えが官道になっていたのである。しかし天応元年(781)の富士の噴火で、足高の南麓を通るようになったのではなかろうか。
   そうなると、荻原の岩下の清水も全く架空のものでなく、天応元年までは、荻原に横走の関があったとも考えられるが、それを裏付けする遺跡などは見当らず、これといった確証はもてない。ただ往時の文献を頼りにするしかない。
   ところが平安時代(794~)には駅路は愛鷹山の南麓を通り下長窪より、神山・御殿場・足柄峠へと出てくるので、そのころは横走の関は、その路線上のどこかに移ったことであろう。
   その路線上に遺跡の最多地域がある。そこからは奈良平安期の土器や建物跡が発見されている。昭和三十六年に南小学校のプールを造成中にに古墳時代の長胴形かめが出土した。これが稲谷遺跡であるが、そこから東へ三百メートルの木瀬川沿いに日垣田遺跡があって、そこからは奈良平安期の台付杯形土器と長胴形かめが出土している。
   また南幼稚園の南にヒガキ田遺跡があり、土師器で片有孔石が出土した。これは祭祀用に作られた奈良平安期のものである。祭祀用といえば官の祭りと結びつくのが自然で、ここのあたりに官衙の建物があったとも考えられる。
   昭和五十一年に南中学校建設の際に、敷地内から墨書土器や竪穴住居跡、掘立建物跡、かめ形。杯形・皿形などの土器類が出土類した。ここを永原追分(ながはらおいわけ)遺跡と名付づけたが、前のヒガキ田遺跡といい、この遺跡といい出土は氷山の一角であろう。しかし、このあたりに往古の関があったと考えても不思議ではない。
   尚泰二年(899)坂東の群盗に不穏な動きがあったので、足柄峠に関所が設けられ東の固めとしたが、すでに関所としての役目は薄かったに違いない。いや、そのころには廃止されていたかも知れない。
   それに引きかえ、清見関のことは、源平盛衰記に、「平将門謀反の聞こえありければ、追討使を下され、駿河清見関に宿りける」と書いてある。つまり九四〇年ごろのことであるが、それ以後、鎌倉時代から今川の時代になるまで清見関は、東海道の守りとして存在していたのである。
   また一方で富士山頂で観測所の助手をしていた梶房吉が、同所の備えつけの図書の中に、たまたま「横走」のことが書いてあったのを見つけた。それは阿祖山神社祝詞大教というものであった。
   河口駅は剗野(もじりの)湖の南、大田川の出口にあたり海伊(かい)国と住家(するが)国の咽首にして、西北の国より穀物始め諸々万の品物を送り来たり、この駅にて受け取る関役所あり、この関を関座の関と申すなり。
   これより家基都(かきつ加吉)駅まで三里十八町なり、東住留賀(するが)国横走村駅は加後坂(篭坂)山あしもとを不二山を横に見て横に走るによりて横走りと申すなり。
   この祝詞は三輪義熙著「冨士史」に載せられたもので、横走駅から加吉駅・河口駅へと上がったところに、関座の関が設けられてあったというものである。
   この関がいつごろ設けられたか不明であるが、諸々よろずの品物を送り来て、河口駅で受け取るための関役所であるので、関税が目的の様である。とすると、平安時代の尾張から鎌倉幕府の頃であったかも知れない。また横走村は篭坂のあしもとを横に走ったところ、としている文面は見逃せない。

 

横走駅


   律令時代の東海道は三十里(十六キロ)ごとに駅家(うまや)が置かれ、国の官人や国使が馬に乗って公務の旅をするのに便宜をはかるためにあった。このうまやのことを駅といい、これを利用する官人を駅使(えきし)とか飛駅使といった。
   かれらは政府から駅鈴を授かり、これを示すことによって宿泊所や駅馬・駅子の調達ができたのである。
   ふつうの駅で用意している馬は十頭で、加吉駅・河口駅は小規模で五頭であった。とくに要路と思われる横走駅は二十頭、相模(神奈川県)の坂本駅は二十二頭であった。
   また郡にある郡家には伝馬(でんま)が置いてあって、伝使が使用できた。つまり国司など官人の任地の往来や罪人を護送するときとか、防人(さきもり)などが利用できた。さらに伝馬は五頭と定められて、家に余裕のある伝戸が飼っていた。管理は郡司がして、馬は国から調達を受けていた。
 このように伝馬は当初、郡家にあったが、だんだん駅馬と同じように駅に置くようになり、伝馬の制度は、平安初期には衰退していった。
   さて横走駅の位置を知るには、相州の坂本駅、甲州の加吉駅、それと長倉駅との関係が鍵となる。坂本駅は新橋相模国風土記稿によれば、いまの関本付近であったことが分かる。また加吉駅は太田亮(あきら)著「甲斐」によると山中村付近であった。さらに永倉駅は、いまの長泉町桃沢のところにあり、そこを長窪(ながくぼ)といった。
   ところが駿河志料で桑原藤泰は、十里木の西に旧長窪という地名があり、そこに長窪駅があったのではないだろうか。後世になって桃沢に移して長久保といったと記している。そうして」窪のことを「くら」ということがあるので、長くら(永倉)とよんだ、としてしている。
   また藤岡謙二郎は「古代日本の交通路」の中で、長倉駅は長泉町本宿付近にあったと記している。
   延暦十九年(800)から二十一年までに冨士の大噴火があり、足柄路がふさがれて、筥荷途(はこねみち)がひらかれた。この路は三島大社の北を過ぎ、山田を経て本山中に至るのであるが、ここに山中関があった。ここより芦ノ湖の北端をまわって本筥荷へ出て小田原へと通じた。
   しかし、延暦二十一年には足柄路復旧したので、筥荷途の新道は廃止された。つまり官道ではなくなったが、小田原へ出るのに便利なため諸民は利用したものである。
   さて長倉駅の手前には柏原駅が足高根方路の鈴川付近(元吉原もとよしわら)にあった。さらに富士川の東に当たる加島付近に蒲原駅があった。
   続日本後記には、永和七年(840)十二月に、駿河水倉(永倉)駅を改め、…以下略、
以上、引用終り


解説と要約


  「横走り」を冠する郷、駅、関に関しては実像がはっきりしない。おそらく、度重なる富士の噴火により移動、廃止が繰り返され、存続した期間が短かったためではないだろうか。
・『横走り』の概念
  『須走』が富士山の尾根を高いところから麓に向かって下るのに対し、『横走り』はすそ野を等高線に沿って移動することを言う。前者が迅速に駆け下るのに対し、広大な富士の裾野は行っても行っても尽きないことから、もどかしさを表現する掛詞にも使われる。
・『横走郷』とはどの地域か?
諸説あるが、確たるものはない。
・東海道のルート変遷
(1)古記随筆(滝口角平)
円融天皇以前(安和2年969~永観2年983)は富士山と愛鷹山の間を抜ける十里木越えが唯一の官道
富士郡吉原――足鷹・富士の間――竹之下――坂本

※十里木(じゅうりぎ)静岡県裾野市須山(峠は標高約870m) (2)仙覚抄(鎌倉中期の僧仙覚による万葉集研究書)によると、「横走りの関は富士足高の間なり」

・天応元年(781)富士の大噴火により、十里木越えが困難になり足高(愛鷹山)の南麓を通るようになった。
・延暦19、20,21年(800、801、802)富士山再噴火により足柄路閉鎖
・延暦21年:東海道が筥荷途(箱根路)に移る
・延暦22年:東海道が足柄路に戻る
(3)平安時代(794~1185)の東海道交通路
加島付近(蒲原)――鈴川付近(柏原)――愛鷹南麓――下長窪(永倉)・神山(こうやま)ーー御殿場

・『横走の関』
朝野群載』…「横走りの関」の初出。天暦十年(956)には実在か。
『藻塩草』…「駿河の国、富士と足高の山の間が東海道の駅路である。その間に横走りの駅がある。」
更科日記に横走りの関の傍らに岩壺という『清水』があったことから、現在に残る駒門、荻原などの地を横走りの関に比定する説があるが推測の域を出ない。


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