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横山遺跡発掘調査概報(抜粋)

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横山遺跡発掘調査概報(抜粋)


  この文献は静岡県駿東郡小山町竹之下字横山に所在する横山遺跡の発掘調査概報の抜粋である(昭和59年3月31日、静岡県教育委員会)。
本調査報告は遺物の詳細調査に至らない中間的なものという。この概報のうち遺跡を概観できる最小限の部分を抜粋した。以下引用


Ⅰ  はじめに


  横山遺跡は駿東郡小山町竹之下字横山に所在する。南東の御殿場方面より、北東を流れる鮎沢川方面に向かって張り出す台地の先端、標高400m程の所に占地している。
   昭和60年度開校予定の沼駿学区の新設高等学校がこの地に建設されるにあたり、埋蔵文化財の存在が問題となった。調査地点は明確にしがたいが、この付近を昭和35年直良信夫博士が調査され、土師器・須恵器を検出しており、また、昭和55年、第二精工舎小山工場の拡充に伴って調査された上横山遺跡が新設高校用地のすぐ南部に隣接していることから、この上横山遺跡が用地内まで広がっていることも予想された。そこで関係者の協議がおこなわれ、建設用地の造成工事に先立ち、予備調査を実施し、遺跡の範囲・性格を把握しそののち本調査を実施することで合意がなされた。
 調査は静岡県教育委員会の委託を受けた小山町教育委員会が主体者となって実施することとなり、調査担当者として町職員1名の他に県教委文化課職員の派遣をうけることとした。
   予備調査の結果、建設用地中央から南東部を中心に古墳時代~奈良・平安時代および中・近世の遺構が広がっていることが判明した。遺跡としての広がりは予想以上に広く、年代的にみても一応上横山遺跡とは別に存在する遺跡であり、従来からその存在があまり明確でなかった横山遺跡本体であると考えられた。
   遺跡は予想以上に大規模であり、期間も限られていることから文化課職員の派遣を増員、また外部からの応援も得て、調査体制を強化し、本調査を実施することとした。
第1図遺跡遠景


Ⅱ   位置と環境

 

  横山遺跡は富士山の裾野から成る台地の東端、標高約400m程の所に位置する。東に箱根山、その北には丹沢山塊が控えている。富士山の裾野の東端は箱根外輪山とぶつかり、その間を縫うように鮎沢川が南から北へ蛇行を繰り返しつつ流れている。また、本遺跡の北側を馬伏川が台地に谷を刻みつつ流れ鮎沢川と合流する。本遺跡の存在する台地も北西側と東側に沢が大きく入り込んでいる。
   富士山東麓一帯はたび重なる噴火により厚く火山灰が堆積しており遺跡の発見を困難にしている。特に宝永の大噴火による火山灰の堆積する区域ではそれが著しい。しかし、地元研究者の努力によって、古墳時代末から奈良・平安時代にかけての遺跡として、御殿場市深沢の御座松遺跡・宮沢遺跡・柳壺遺跡、小山町桑木の前原遺跡・沢田遺跡・上の原遺跡等が発見されている。また、昭和55年にこの地域で始めて本格的な発掘調査が行われた上横山遺跡は本遺跡の南側隣して存在する。足柄峠を越えて東国へと通じる古代足柄街道がこの付近を通ったと推定されており、これらの遺跡はその道すじに沿う形で点在していると考えられる。足柄峠を目前に控えたこの付近一帯は古くからの要衝の地であり、和名類聚抄に記載されている「横走り駅」の位置をこの付近に比定する意見もある。さらに降って鎌倉期には新田義貞が鎌倉を攻め足利高氏との戦いに敗れた「竹の下合戦」はこの地が主戦場と言われている。
   この周辺の遺跡のうち、その実態が明らかにされているものはほとんどなく、前記した上横山遺跡の調査はそうした意味においても注目を集めた。発掘調査の結果奈良時代前半の竪穴住居跡25軒、掘立柱建物6棟等が検出されており、今回の横山遺跡の発端にもなった。
第4図周辺地形およびグリッド配置図


Ⅲ 調査の経過と方法


  予備調査は8月3日からおよそ1ヶ月をかけて実施した。工事用の主軸線を基準として、建設用地内に20m×20mの方眼を設定し、1グリッドごとに2m×2mの試掘抗を設けた。試掘抗は地形等をふまえて設定し、全部で60ヶ所となった。試掘は一部重機を使用し、Ⅳ層(赤褐色スコリア層)まで掘り下げ、土層の観察、遺構の有無・遺物の出土状況の確認を行った。また、これらをもとに、調査予定区域の土層模式図を作成した。予備調査の結果、建設用地の中央から南東部分を中心に古墳時代から奈良時代にかけての竪穴住居跡・柱穴、中・近世期の土壙、また宝永のスコリア層直下には近世期の畑地が存在することが確認された。遺跡の広がりは予想以上のものであった。
  本調査は9月10日より開始された。本地域は、冬期の霜や積雪も予想され、また、造成計画とのかねあいもあり、12月一杯を目途とした。予備調査の結果、遺構検出面とすることにしたⅢd層(暗褐色スコリア質土層)まで、1m~1.5mもの火山灰の堆積があり、また調査面積も広く、期間等も考慮して、重機により遺構検出面直上まで排土を行ない、その後人力により遺構検出を行なった。宝永の火山灰層直下の近世畑跡についても一部でこれを調査することとし、その後下層の遺構調査のため排除した。各遺構については、掘り上げ、土層観察ののち、随時写真撮影・実測を行ない、11月上旬には発掘区全体の航空写真撮影をした。その後、残された実測、竪穴住居のカマドの解体、住居跡掘り方の調査を行ない、およそ4ヶ月をかけ、12月27日には現地調査を終了、調査面積は17,000㎡にも及んだ。
  実測図は各遺構とも1/20を基本として作成し、カマド等の詳細図については1/10で作成した。写真撮影は中型カメラ(6×7)を主体に、35mmを補助とし、必要に応じ大型ビューカメラを使用した。


Ⅳ 遺跡の概要


1.土層について


  横山遺跡の土層についてはm昭和55年に調査された上横山遺跡でのものを参考とし、一部遺構が切り込んでいる砂沢スコリア層まで、色調などをもとに以下の様に整理した。    Ⅰ層・宝永4年の富士山噴出物、最下部に軽石角礫が堆積。Ⅱa層・暗褐色土層(宝永4年前の耕作土)。Ⅱb層・暗褐色土層、細スコリア粒を含む。Ⅱc層・調査時、Ⅲ黒層と呼称した黒褐色腐植土層。Ⅲa層・暗褐色スコリア質土層、細スコリア粒を含む。Ⅲb層・黒褐色スコリア質土層、粗大スコリア粒を含む。Ⅲd層・暗褐色スコリア質土層、細スコリア粒を含む。Ⅳ層・赤褐色スコリア層と褐色スコリア腐植土層が互層をなす。Ⅴ層・砂沢スコリア層(黄褐色砂質)。竪穴住居跡・掘立柱建物跡の掘り方はⅢb層から切り込んでおり、中近世の土壙については、Ⅱc層下部より切り込んでいることが確認された。上横山遺跡で確認された乾くと灰褐色を呈するスコリア層(Ⅲc層)は今回の調査では明確な形で確認することはできなかった。



2.各区の概要

 

  調査区は17,000㎡にも及ぶ広大なものであり、調査の便宜上全体をⅠ~Ⅳ区に分割して調査を進めた。Ⅰ区は調査区北半(H~K―7~11区)、Ⅱ区は調査区中央(E~G-7~11区)、Ⅲ区は調査区西側(F~I―5~7区)、Ⅳ区は調査区南側(D・E-4~9区)である。遺構番号についても各区ごとに付し、各遺構番号の最初の数字が区の番号と対応している。
   今回の調査で検出された遺構は、全体で竪穴住居跡92軒(古墳~奈良、平安)、掘立柱建物跡58棟(古墳~奈良、平安)、柵列(古墳~奈良)、溝状遺構(古墳~奈良)、円形土壙400以上(中・近世)、畑跡(近世)があるが、以下各区ごとにその概要を簡単に述べる。
   Ⅰ区   竪穴住居跡群を中心に遺構が広がる。古墳時代~奈良時代のものが主体であり、大型の竪穴住居跡も多く、平面が五角形となる張り出しをもつものも見られる。北西部分には小型の掘立柱建物群がみられる。北側と東側では遺構が途切れており、遺跡の広がりの限界であろう。
   Ⅱ区   古墳時代から奈良時代の掘立柱建物群を主体とする遺構が広がる。SH203,SH223、SH224の大型の掘立柱建物を中心に、柵列あるいは溝状遺構によって区画された形である。竪穴住居跡はこれら掘立柱建物群の周辺に存在する形を呈しており、掘立柱建物群と重なる形で存在する竪穴住居跡は平安時代のものである。
  Ⅲ区   調査区内ではやや小高くなっている部分であり、竪穴住居跡が存在する。Ⅰ区に比較して、その密度は薄いものであり、住居跡が切り合う例は少ない。ここより西側については遺構がほとんどみられなくなっており、そのまま傾斜して谷に至るものと考えられ、遺跡の西の限界っと考えられる。
   Ⅳ区   E-6区を中心に掘立柱建物群がみられ、竪穴住居跡がやゝ散在的に広がる。なお、遺構については南側にさらに続く気配がみられたが用地外であるため追及できなかった。本区の西端部では谷へと続く道路状の遺構も検出している。
  以上を全体的にまとめてみると、古墳~奈良時代の遺構の広がりはⅡ区の掘立柱建物群を中心として竪穴住居跡群がそれをとりまく形で存在する。平安時代の竪穴住居跡・掘立柱建物は調査区に散在する。また、中・近世の土壙は調査区全域にみられた。なお、調査区北西および東側で近世期の畑跡の調査を行なったが、畑の畝跡や、地境の溝、道が検出されている。

横山遺跡発掘後全景拡大図はこちら


Ⅴ 遺構


Ⅰ.竪穴住居跡


 


  今回の調査に於いては、最終的に92軒の竪穴住居跡が確認された。住居跡の保存状態は、比較的良好であった。これらの住居跡は、大きく見れば調査区北半から南西部にかけて扇状に分布しているものが多く、東側南半に分布するものは少ない。
   竪穴住居跡の年代は出土遺物から古墳時代・奈良時代・平安時代の3時期に大別される。
  <古墳時代>
   軒数が最も多く、一般的に大型の住居跡が多い。平面形は方形のものが多いが、入口側に張り出しを持つものも見られる。柱穴は4本を基本とするが、張り出しを持つもの及び方形のものの一部には入口部にも1本の柱穴を持つものもあり、入口に関係する施設が考えられる。図示したSB125は入口側が張り出す住居跡で、規模は7.2m×6.8mと最も大型の住居跡の一つである。

   <奈良時代>
  古墳時代に比べ軒数も少なく、規模もやや小型になる。平面形は方形で、柱穴は4本のものが多いが、入口部にも柱穴を持つものも少し見られる。図示したSB402は、5.7m×5.3mの大きさで奈良時代の住居のなかでは大型のものである。
  <平安時代>
   奈良時代までの住居跡が先述したように大きく扇状にに展開するのに対し、散在しており、軒数も少なく住居跡の規模はかなり小型である。住居跡内に柱穴が検出されない例が多く、またカマドは住居跡の隅に造る例も多い。図示したSB207はカマドを壁の中央に持つ住居跡で,2.7m×2.7mの小型の住居跡である。

   各住居跡は原則として1基のカマドを、多くは壁の中央に造られているが、カマドが造り換えられている例もいくつか認められた。カマドの構造は多様だが、大まかに概観すると住居跡の規模とともに時代が下がるにつれてカマドも小型となるが、その構造では石を多く使用するなど複雑なものへと変化する傾向が窺える。


2.掘立柱建物跡・柵列跡


  横山遺跡における古墳~奈良・平安時代の遺構としては、竪穴住居跡とともに掘立柱建物跡・柵列跡をあげることができる。今回の調査では掘立柱建物跡58棟、柵列跡3本を検出したが、他にも柱穴の密集する個所や連続する柱穴も認められており、今後の整理のなかで検討する必要がある。各調査区における分布をみると、掘立柱建物跡はⅠ区21棟、Ⅱ区22棟、Ⅲ区4棟、Ⅳ区13棟であり、また柵列跡はⅡ区の掘立柱建物群に伴っている。掘立柱建物跡・柵列跡の集中するⅠ区・Ⅱ区・Ⅳ区は、地形的にみると南西から北東へと伸びる谷にあたっており、竪穴住居跡が尾根にあたるⅢ区にも立地するのに較べ、その占地が谷に限られていたことを示している。また、掘立柱建物跡の棟方向も等高線に平行あるいは直交するものが多く、谷地形に制約をうけていると考えられる。掘立柱建物跡は2間×2間、2間×3間のものが大半であり、それぞれ束柱をもつものともたないものとがある。この他に2間×4間、3間×5間、3間×8間などの例がある。図示したSH203はⅡ区の柵列がめぐる掘立柱建物群の中核をなす大型建物である。SH203は梁間2間(5.00m)×桁行4間(9.75m)の建物で、柱穴掘り方は大型で平面方形を呈する。時期の検討は充分経ていないが、SB203(平安)に切られており、7世紀代を想定している。SH203は梁間3間(6.75m)×桁行8間(18.50m)で、梁間の西寄り1間目に棟方向の束柱をもつ。束柱は11間で内側の9間が溝と切り合う。また、柱穴掘り方にも切り合いがみられ、1回の建て替えが想定できる。各々の掘り方覆土からは7世紀後半と8世紀前半の須恵器杯破片が出土しており、その年代を知り得る。
 


3.土壙


  中・近世の土壙が調査区域全域にわたって検出された。総数は400以上を数える。大きさは概ね径1.2m前後で円形である。覆土は黒褐色土であり、調査区域境界の壁面で観察したところではⅡc層下部より掘り込まれていた。大部分がⅣ層下面まで達していることから、深さ1m前後である。掘削の方法については、垂直に掘り下げている。もちろん若干えぐれたり、底面に向かうにつれ狭くなるものもあるが、特徴としてとらえられるほど顕著ではない。また、底面はほぼ平坦である。
  これらの土壙が何の目的をもって作られたのかについて、まず考えられられるのは墓である。歯・骨などの人骨の検出はおろか、この土壙に伴なう人口遺物も検出できなかったが、これだけ多くの土壙がかなり無秩序に並んでいることから、墓壙と考えるのが適当である。これらの土壙の時期については、遺物を検出できなかったことから明確ではないが、掘り込み面より中世から宝永火山噴火以前の近世の中でとらえられる。切り合うものもあることから、若干の時間幅を想定できる。


4.畑跡


  宝永山の爆発で埋もれた畑を検出することができた。富士山の中腹に位置する宝永山は江戸時代の1707年の噴火によってできたものであり、富士山の東麓に多大な被害を与えたが、それを裏付けるような検出状況であった。厚さ数10cmに及ぶ火山砂が堆積し、その下には径数cmの角ばった軽石が畝間の溝を埋めており、それを剥ぐことによって畝・溝まで容易に検出できた。
  今回の調査ではⅠ区とⅡ区で平面調査できたが、Ⅱ区では一本の道が走りその両側に畑が広がっていた。道は幅約1mであり、その両端は盛土によって畑と区画されている。Ⅰ区の畑は東西に走る小径の北側にのみ設けられ、南側では検出されなかった。


Ⅵ 遺物


  今回の調査では土器を主体に豊富な遺物が出土している。それらのほとんどは竪穴住居跡からの出土であり、須恵器・土師器・灰釉陶器・緑釉陶器・鉄製品(刀子・鉄鏃・鉄斧・鉄鎌・紡錘車)・石製品(砥石・紡錘車)・銭貨(和同開珎・寛平大寶)などある。現在整理中であるため、ここでは土器を中心にその概略を述べる。
   <須恵器>
  古墳時代後半から奈良時代前半の須恵器が出土しており、しかもそれぞれの型式が間断なく捉えられるという特色をもっている。
   第22図(1)~(5)は7世紀前半代に比定される須恵器である。従来の遠考研編年(注1)で、第Ⅳ期前半とされてきたもので、ここではSB106とSB210から出土した杯蓋・杯身の一部を図示してみた。蓋の天頂部と身の底面を平坦に作ったものと丸く仕上げたものの2種類がみられる。身た身の立ち上がり部分は比較的低く、これらは口径9cm前後、器高3~4cmを測るものが多い。
   第22図(6)~(11)は7世紀後半代に比定される須恵器である。遠考研編年で、第Ⅳ期後半とされてきたもので、ここではSB123から出土した資料の一部を図示した。蓋は扁平な擬宝珠状のつまみを有し、身受けのかえりをもっている。身は高台を有するものとないものの2種類があり、前者には口径14cm前後の大型品でTK217に比定されるものも見られた。これらは、これまで集落跡からの出土例が少ないもので、その編年的位置に対し検討が必要であろう。

   第23図(16)~(22)は8世紀前半代に比定される須恵器である。遠考研編年の第Ⅴ期前半とされてきたもので、SB115、SB123、SB205から出土した須恵器の一部を図示してみた。口径は15cmを測るものが多く、これらは伊場遺跡(注2)でA類とB類に分類されている須恵器である。

  <土師器>
  古墳時代後半の土師器には甕・甑・高杯・杯・手捏ね土器等がある。甕には、藤原宮をはじめ、県外から運び込まれたと考えられるものも含まれていたが、大部分は在地産のいわゆる「駿東型甕」と称されるもので、球胴で口縁端部内面を肥厚させるという特徴をもっている。高杯には、盤状を呈する藤原宮のものもあるが、多くは内外面にヘラミガキを施す在地産の高杯である。杯身の多くは、須恵器模倣から発展したもので、既に蓋・身のセット関係が崩壊した後の段階に否定されるものである。体部下半から発展したもので、既に蓋・身のセット関係が崩壊した後の段階に比定されるものである。体部下半に稜線を設け、それよりも下方を手持ヘラケズリし、内面をヘラミガキする杯身が大部分を占めている。
   これらに対し、奈良時代前半期の土師器は甕・杯身が主体となり、その器種構成は変化するようである。甕は尚も「駿東型甕」が主に用いられており、この時期のものには胴部外面にヘラミガキが施されるようになる。杯身は体部下半の稜が不明瞭となり、体部下半が手持ちヘラケズリされ、内面にはヘラミガキが施される。なお、組成の面からみると大型の「駿東型甕」と小型甕は一貫して用いられていたようである。
  <緑釉陶器・灰釉陶器>
  第23図(26)~(30)は平安時代後半に比定される土器である。(29)はSB207から出土した緑釉陶器であり、全面に濃緑色の釉が施されて輪花碗である。口径17cm、器高7.4cmを測り、全体の1/2強残存している。(23)・(24)・(26)・(27)はそれぞれSB203,SB207から出土した灰釉陶器である。灰釉の発色は全体に良好でないものが多い。本遺跡出土の灰釉陶器の多くは愛知県猿投古窯編年(注3)の折戸53号窯式の中に納まる資料であり、10世紀中葉の年代が求められよう。
 また、この時期の土師器甕(30)がSB207等から出土し、この時期の底部糸切り再調整無しの土師器杯(25)がSB203から出土している。これらはこの時期の土器編年を考えるうえで重要な資料である。

   注1. 川江秀孝「静岡県下の須恵器について」『静岡県考古学会シンポジューム2 須恵器―古代陶質土器の編年―』1979
   注2. 浜松市教育委員会『伊場遺跡遺物編2』伊場遺跡発掘調査報告書第4冊 1980
   注3. 愛知県教育委員会『愛知県古窯跡群分布調査報告(Ⅲ)(尾北地区、三河地区)付、猿投窯の編年について』 1983


Ⅶ まとめ


  横山遺跡の調査によって発掘された遺構は大略3時期に分けることが出来るが、それは各々火山灰を間層とすることによって確認できる。


近世の遺構


  宝永山の噴火による火山灰層に埋もれている遺構である。これには畑、畑と山林の間に掘られた溝、山林の東斜面に掘られた方形の芋穴、畑境いの畦道、台地を南北に横切る巾の広い村道等があり、1707年(宝永4年)の富士山の大爆発直前の農村の一部をきれいに示している。

 

中世の遺構


   黒褐色土に掘り込まれた円形の土壙群である。形態、規模等が良く似ていること、分布が何ヶ所かに集中する傾向が見られることからあるいは墓壙ではないかと思われる。

 

古代の遺構


  奈良・平安時代に合わせ竪穴住居跡92軒、掘立柱建物跡58軒が検出されている。
<遺構の配置>   平安時代のものを除くと発掘された遺構は柵に囲まれた掘立柱建物群およびその周辺に広がる竪穴住居跡と小規模な掘立柱建物群とに分けることができる。遺構個々の年代については資料整理が未了であり、確定できてないが、遺構は7c中葉から8c前葉に及んでおり、大略3期に分けることが可能である。この間建物群の配置は3期ともに大きく変わってはいないようである。
 <遺構の種類>   検出された遺構は竪穴住居跡・掘立柱建物跡・柵跡等が中心であるが、それらの形態、規模にはかなりの差があり、特に掘立柱建物跡についていえば、3つに分けることができる。(A)規模の大きなものであり、たとえばSH233は8間×3間(桁行18.5m×梁間6.7m)、SH203は4間×2間(桁行9.7m×梁間5m)の規模を持っている。またSH101・SH224とした5間×3間の建物がこれに続いている。規模あるいはその位置からもこの遺跡の中心を成すものである。(B)2間×3間のものでもので後に述べる2間×2間のものよりは柱間が大きく側柱のみのものと総柱のものがある。建物の数では最も目につく存在である。(c)2間×2間の小規模な建物である。総柱の建物が多いが中には側柱のみのものもある。その規模から倉庫風の建物を推定できる。(D)これらの他に2間×2間の外側に柱穴をもった特殊なものものがある。あるいは屋根を延し、軒先を深くした建物かもしれない。こうした規模、形態の差は当然その用途の差によるものであり、その検討により、遺跡の性格を知ることになろう。また、SH203の建物方向に一致し、それを囲う形で柵列が検出されている。溝になっている部分とそれを切って深い柱穴になっている部分がある。それらは西側ではSH223により取り付き全体で不整方形に囲んだ状態になる。何ヶ所かに入口が設けられている。

 

遺物

 

  出土した遺物の量は非常に多いが、大半は須恵器、土師器であり、特殊な遺物な少ない。また竪穴住居跡内から耳環・刀子など後期古墳の副葬品と同じ組合わせの遺物が出土している。

 

遺物の性格

 

  資料が未整理であり、複合している遺構の年代比定等詳細の検討ができていないので、整理を待って検討することとしたいが、資料整理への見通しという意味を含め考えて見れば、①遺構の年代は7c中葉~8c前葉にあり、一部は10c中葉に復活している。それらは大略Ⅰ期(7c中葉)、Ⅱ期(7c後葉)Ⅲ期(8c前葉)、Ⅳ期(10c中葉)ということになる。このうちⅣ期を除いてはほぼ同様の遺構配置、規模を持った可能性がある。②遺構の配置は不整方形の柵列で囲まれた掘立柱建物群が中心であり、特にSH223の前後は空地になっており、その機能が注目される。③遺物の須恵器・土師器が大半であり、鉄製品等の特殊遺物は少なく、また墨書土器・硯等は全く出土していない。
   こうした遺構の状態からこの遺跡からこの遺跡は単なる農業集落と異なり、地方官衙風と言えなくもないが、遺物には官衙を推定させるものがない。また年代的にも地方官衙の整備される段階に若干先行するものと思われ、遺構の配置にも途中で遺跡の性格に変化があったとは思われない。従って地方官衙とも単なる農業集落とも考えられないこの集落を今のところ古墳時代末から律令期にかけての地方豪族の居館と考えている。今後資料整理と類例を併せ検討することにしたい。
以上引用終わり


横山遺跡発掘調査概報・図表一覧


オリジナルの概報に収録された図表の内、●印を付したものだけを抜粋し残りは割愛した。
●第1図 遺跡全景(写真)
  第2図 周辺航空写真(写真)
  第3図 周辺遺跡分布図(古墳時代末~奈良・平安時代)
●第4図 周辺地形およびグリッド配置図
  第5図 遺跡全景(航空写真)
●第6図 土層図
  第7図 遺跡全景2(北東より)(写真)
   第8図 竪穴住居跡群(Ⅰ区・Ⅲ区 西より)(写真)
  第9図 掘立柱
  建物跡群(Ⅱ区 西より)(写真)
●第10図 掘立柱建物跡と柵列(Ⅱ区 北東より)(写真)
  第11図 竪穴住居群と掘立柱建物跡(Ⅳ区 東より)(写真)
●第12図 全体図
●第13図 竪穴住居跡実測図
  第14図 竪穴住居跡SB125,SB402,SB402カマド断面、SB207、SB207カマド(写真)
  第15図 掘立柱建物群柵列(写真)
●第16図 掘立柱建物跡実測図
  第17図 掘立柱建物跡(写真)
  第18図 土壙(写真)
  第19図 畑跡実測図
  第20図 畑跡全景(写真)
  第21図 土器出土状況SB125,SB123(写真)
●第22図 土器実測図
●第23図 土器実測図
  第1表 周辺遺跡地名表

 

横山遺跡現地案内板


本遺跡は富士山の裾野から成る台地の東端、標高約400メートル、古代足柄街道の道筋に位置し、古墳時代末期・奈良時代前半・平安時代後半の集落跡である。
本校の建設に先立ち、小山町教育委員会により発掘調査(昭和58年8月~12月)が行われ、竪穴住居趾92軒、掘っ立て柱建物58棟と道路趾などの遺構が検出されました。
 出土した遺物には、土師器・須恵器などの土器、鉄鏃や鎌等の鉄製品、銭、鉄滓などがある。
遺構の状態からこの遺跡は単なる農業集落と異なり、古墳時代末から律令期にかけての地方豪族の居館、或いは「駅」と呼称される官衙(交通関係の公共施設)に近いものではなかったかと推定されている。
平成5年1月
静岡県立小山高等学校後援会


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