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平安時代前期の東海道駿河路の駅家

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  律令時代~平安時代にかけて駅路・伝路という交通網が整備された。官道というのはそのような政府により維持管理される道だが駿河路で、それはどこだったのか?
駿河における東海道は富士山の火山活動によって愛鷹山の北麓や南麓を経由して足柄峠を抜けるか、あるいは箱根路を通らざるを得ない時期もあり、最終的に箱根路に移っている。
  駿河国における東海道の変遷のページで、古くは愛鷹、富士の間を抜ける十里木(じゅうりぎ)コースがあったと言われるが、律令期に駅制ができてから、それが官道となったことはあるのだろうか?
倭名類聚抄には東海道の駅路として小河、横田、息津(おきつ)、蒲原、長倉、横走(よこはしり)の6駅が記載されている。この平安時代の百科事典は承平年間(931~938)に源順(みなもとしたごう)により編纂されたもので、平安時代前期の状況を反映している。とすれば平安時代に十里木コースは官道ではなかったということである。 十里木を越えれば距離は短いのに官道でなかったのは、「馬が使えなかった」からかもしれない。尾藤卓男氏が言及しているように『馬は水なしでは10km歩けない。平安時代の馬なら8kmも歩けない』。富士山の真下である十里木周辺は延暦年間以来、火山活動で火山灰、火山礫に覆われ、安定した良い水場があったとは考えにくい。活動が小康状態の期間に通行可能でも駅家がなければ、あくまで脇道に過ぎず、東海道の官道は平安時代を通して愛鷹山南麓を迂回して足柄峠に向かうコースであったと言える。
画像は倭名類聚抄、高山寺本の『駅』東海道の部分。筆写されたページを見ると、ここだけでも4か所の明らかな誤りがある。筆写された伝本には必ず誤写が起こるので校合が必要になるという実例である。
引用:諸本集成 倭名類聚抄本文編、p.851、京都大学文学部編、臨川書店

  ※正誤
×相模国が全く抜けている。坂本、小総、箕輪、浜田・夷参?
○両村→×雨村
○横田→×横
○以上甲斐→×以上武蔵


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