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門出

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平安時代東海道を京に上る
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9月22日(曇):住み慣れた国司の館からの門出


  今日いよいよ、四年を過ごした国司の館(たち)を門出した。この数日、家の片付け、荷作りなどでごった返していたが、今朝はいよいよ台所の道具類、身の回りの衣類、調度まで取り片付け持ち帰らない物はこれまで官舎(国司の館)で働いてくれた者皆んなに分けられていった。執事の虎吉(とらよし)はこんな時本当に手際が良くて頼もしい。旅の準備は彼が一手に進めている。午後も大分過ぎた頃、新任国司のために新築された屋敷、それがこれからの上総の国衙ということになるのだが、そこに挨拶に行かれていたお父様が戻られ、残り物で軽い食事をすませて、いよいよ女は車に乗り込み出発することになった。車に乗る前に家の周りを一回りしようと、戸、蔀戸(しとみど)が開け放され几帳(きちょう)もなくがらんとした部屋に目をやると薬師様がぽつんと一人立っておられる。静けさの中で、突然涙が目にあふれて来るのをどうしようもなかった。薬師様はとてもお連れする事は出来ないので近くのお寺にご本尊としてお移しする。車の回りには近所の人達たちが沢山見送りに来てくれ、姉さんも、まま母さんも身分の違いも忘れ出入の人達と手を取り合い
 「お達者でね」、「ご無事で」
などと涙声で言い交わしていた。
   私の遊び仲間の桔梗ちゃん、美萩ちゃんも、それぞれ野原で摘んだ花束を持ってやって来た。私は涙でみんなの顔を見られず、べそをかきながらさようならを言った。男達に急き立てられ車に乗り込み動き出すと見送りの人の群れも一緒に動き出し、尼寺の礎石の残る原っぱの脇を抜け、この台地を下るだらだら坂に向かって進む。いつも花摘みに来ていた、尼寺の趾の前では姉やまま母さんの見知った役人の妻たちが会釈したり手を振って最後の別れを惜しんでくれた。今日は朝から霧があったが昼過ぎからだんだんひどくなり坂の途中で野の方を見ると下はぼんやりと灰色のもやに包まれてしまった。坂の下で見送りの人群れは止まり、だんだん小さくなる。、私はつい、たまらず、まま母さんの止めるのも構わず車から身を乗り出し黒い塊に向かって
  「みんな元気でねー、また会おうねー」
と叫んでしまった。
  海に向かう真っ直ぐな大道を車に揺られながら、ただ両側に広がるもう刈り取るばかりになった水田の稲穂に目をやるばかりで誰も口をきかなかった。灰色のもやがだんだん黒くなり、回りが真っ暗になる頃、いまたちに着く。ここは海辺に沿って東は下総、西は安房に向かう官道の傍にあり、身分のある者が旅の途中で利用したり公の行事の時臨時に使われる建物だ。でも暗がりの中でも何となく荒れた感じがする。庭では火が焚かれ運び込まれた荷物を赤々と照らしている。朝から準備のため先に来ていた家の者達の手で宿泊の準備も整えられ、私達は今日はもう寝るだけだ。まだあちらの方ではお父様や虎吉が、というより虎吉の野太い声だけが何やかやと男達に指示しているのが聞こえる。こちらはお先におやすみなさい。

9月23日(晴れ)
   夜が明ける前に海鳴りの音で目が覚める。昨日まで寝起きした所は虫の音しか聞こえない場所だったのに、今日からいよいよ新しい日が始まったのだ。隣で寝ている姉さんも、もう目が覚めているらしく寝返りばかりしている。夜が明ける頃声をかけると
「浜の方に行ってみようか」
と声が返ってきた。もぞもぞと起き出し戸から出ようとすると兄も連いてきた。夜が明けて見ると、この萱葺きの建物は蔀戸もなくその場しのぎに簾や幕で繕っている。昔はちゃんと管理の者も居てきちんと整備されていたと言うが、一体いつのことだろう。今では家の周りの垣根もなくなりわずかな松の木立だけが救いのわびしいたたずまいだ。浜までは少し距離があるが近づくとだんだん前に海が広がってくる。東も西も海だ。どこまでも続く白い砂浜だ。ひんやりした潮風が気持ちいい。思いきり手を広げ「ばんざーい」と叫びたい気分だ。いや兄は実際に「ばんざーい」と叫んでしまった。南の方を振り向くと一面の野原が広がっている。その先には私達の居た国衙、国分寺のある台地も見える。
  この日から十日程、ここに滞まり旅の最終準備をするという。持ち帰る事のできるものは限られているので穀類などの食糧は旅の途中で食べるものだけにして、軽くて価値の高い絹、商布や紙その他の上総の特産品に換えてしまうのだ。これから毎日近在の者達の出入で騒がしくなるだろう。また京まで警護をする侍達も支度が出来次第集まってくる。最近は盗賊が多くて護衛なしでは旅はおろか、近場に出かけることもできない。今度の旅では京から連れてきた者の他に上総の国衙で召し使っていた者も雇い入れたそうだ。この旅は総勢何人になるんだろう。さて、そういうことはさておき、ここの夕暮れはとにかく美しい。海から立ち上る夕霧が松原をただよって来る美しさはたとえようもない。持って帰れるものなら持って帰りたい。でも、もう少しは時間がある。今のうちにあちこち見て回わらければ、もう二度とここに来ることはないのだから。


図は「粉河寺縁起絵巻」、娘が出家のため門出する場面



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