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国司館(こくしのたち)で行われていた平安時代の地方行政

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  古代の地方行政機関は国府であり、その役所、国庁(国衙)、で行政、司法事務が行われていた。しかし、平安時代の後半になると全て国司館(こくしのたち)で政務が行われていたことは間違いない。これまで発掘調査された国府跡は、火災などで数度失われ再建された後、10世紀になると多くは再建されずに終わっている。これは何故か?


国庁設置の目的


  平安時代にはかなり早い時期から国府の日常業務は国司の私邸であった国司館で行われていたと考えられる。その理由は、想像だが、国府の正殿、他の建物が事務所としての利便性が著しく悪かったためと考えられる。実務を私邸である国司館で行なうことは平安時代どころか、奈良時代から始まっていたようだ。『続日本紀』によれば天平宝字5年(761年)の記事として、次のような国の次官による規律違反、汚職の実態を述べている。

『美作介従五位下縣犬養宿禰沙弥麻呂、官長を経ずして恣(ほしいまま)に国政を行ひ、独り自ら舘に在りて公文に印し、兼ねて復時価に拠らずして民の物を抑へ買ふ。守正四位上紀朝臣飯麻呂が為に告げられて官を失ふ。』(続日本紀3、p385新日本古典文学大系(岩波書店))
  <現代語訳>
美作の介(次官)、従五位下縣犬養宿禰沙弥麻呂は守の承認を得ないで勝手に国政を行ない、ひとり私邸に居て公文書に国印を押印し、そればかりか、民の物品を時価より安く買い取っている(そして、横流して利益を得ている)。守の正四位上紀朝臣飯麻呂に告発され罷免された。

   この話は次官の不正ばかりでなく、それを許していた守の監督不行き届きでもあると思うのだが、前任者の任期中のことであったのか?
   国府が各国に設置された目的はもちろん統治の必要性からである。もう一つは地方の人々に、きらびやかな中央官庁のミニ版の国庁を見せ、そこで儀式を行うことで中央政府の権威を地方の人々に見せつけることであった。奈良時代まではその役割の方が大きかったかもしれない。平安時代に入り、だんだん地方統治が安定してくると、日本の風土に合わない、中国風の建物では居住性が悪く、管理費用のかかる国庁施設を維持する必要性が薄れ、火災などで焼失した機会に建物は再建されることなく消滅していったと考えられる。もちろん国府としての行政事務は国司舘(こくしのたち)で行われ、そこが国府であった。
   ※メイン画像は次に述べる第Ⅱ期の下野国庁の復元模型で、竪穴住居しか見たことがなかった人々には、とてもまぶしく感じたのではないだろうか。


平安時代国府における国庁建築の変遷と消滅


国府と国庁(国衙)はしばし混同されるが、厳密には行政組織と建築施設の関係である。ここでは国庁という形のある建築施設の推移を発掘調査が行われた下野国府を例にとって見てみる。第6回企画展「古代の役所」(栃木県立しもつけ風土記の丘資料館、1992)パンフの記述から下のようにまとめてみた。
 


下野国府の国庁時代的変遷
時期 年代 政庁(正殿) 前殿 脇殿 区画構造物
8世紀前半 礎石柱板葺 板葺 掘立柱板葺 板葺塀
750年~791年 礎石柱瓦葺 礎石柱瓦葺 掘立柱瓦葺 掘立塀、南北塀に廊
9世紀代 礎石柱瓦葺 礎石柱瓦葺 礎石柱瓦葺 築地塀+土塁
9世紀後半~10世紀前半 礎石柱瓦葺 なし 掘立柱板葺 築地塀+土塁

下野国庁は奈良時代の末に一応の完成形に達している。しかし、それが長く維持されることはなく、半世紀後には、前殿のような施設は取り払われ、脇殿も掘立柱に戻るなど、簡素化が進んでいる。そして10世紀後半には国庁施設全体がなくなった。おそらく火災或いは地震、台風などの自然災害で崩壊したのち、再建されることがなかった。つまり国庁施設はなくても良かったのである。平安時代に入ると儀式だけは国庁で行うが、日常の政務は国司館(こくしのたち)で行うのが普通になっていたのではないだろうか。 以上の事情は全国どこでも同じで、10世紀の間に相次いでミニ宮殿のような国庁は姿を消していったと想像される。
 上総の介であった菅原孝標も、もちろん国司館で政務をとっていたのである。
 ※下野政庁跡には現在、宮目(みやのべ)神社があり発掘調査はされていない。国庁が廃止されたのちも政庁はしっかりした建物であったため、地域の神社として転用されたものと思われる。お蔭で、かつての政庁の位置が保存され現代に伝えられた。


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