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平安時代の遊女(あそび)を伝える同時代文献(漢文)2編

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  倭名類聚抄によれば遊女という文字は『あそび』と訓まれている。では『あそび』とは、どういう人たちであったか。この遊女(あそび)について大江以言と大江匡房によって書かれた2編の詩文がある。これにより、遊びの仕事が明らかになる。この内容は和文で書かれた平安時代の歴史書『栄花物語』でも裏付けられる。結論を言えば、平安時代の『遊女(あそび)』は歌や楽器演奏の芸能人で、そのレベルは個人芸を越えた興業レベルのものであったことが明らかになる。もちろん、後世のように男性の接待も重要な仕事であった。
   『見遊女』では主として男性を楽しませる仕事にスポットが当たっているが、『遊女記』では芸能面にスポットを当て、その歌唱、演奏の技術レベルが半端ないものであることを述べている。それは東三条院の御幸の際に江口の『あそび』に下賜された、ご祝儀が米150石、上東門院の御幸では絹300疋という莫大な額であったことからも分かる。両院は言うまでもなく故円融天皇、故一条天皇の皇太后であり、高貴な女性をお迎えするために江口の「遊び」組織が総力を挙げて企画した一大ページェントであった。それからすれば更級日記に登場する遊びは個人歌唱のレベルにとどまり、西国の江口の遊びの芸は現代でいえばプロデューサーに率いられたAKB48的な集団歌唱と演奏あるいは小舟での一大パフォーマンスであったといえる。
   ちなみに、栄花物語によれば後三条院(後三条天皇)の御幸の際にはお迎えした遊びの舟は2艘だけで簡素なものであった。これは後三条院が病気(たぶん糖尿病)で健康がすぐれず、住吉社、天王寺参詣も平癒祈願のためであり、そのため大げさなお迎えは不適当と自粛したと推察される。
 以下、大曾根章介氏による書下し文と現代語訳を示す。現代語訳はサイト管理人松太夫が現代風に意訳した。
原文はこちら『見遊女』、『遊女記』 


(1)遊女を見る (『本朝文粋』 第九、詩序二・238) 江以言 (大曾根章介氏書き下し)

 

  二年三月、豫洲源太守兼員外左典厩、春南海に行きて、路に河陽(かや)に次(やど)る。河陽は山河摂三州の間に介(はさま)りて、天下の要津なり。西より東より、南より北より、往反の者、この路に率(したが)ひ由(もち)ゐずといふこと莫(な)し。  その俗、天下女色を衒(てら)ひ売る者、老少提結し、邑里(いふり)相望む。舟を門前に維(つな)いで、客を河中に遅(ま)つ。少(わか)き者は脂粉歌笑、以て人の心を蕩(とろ)かし、老いたる者は簦(かさ)を担い棹を擁(よう)して、以て己が任と為す。夫婿有る者は、責むるにその淫奔の行少なきことを以てし、父母有る者は、只願はくはその徴嬖(ちょうへい)の幸多からんことを以てす。人の情(こころ)に非ずと雖も、是俗事なるを以てなり。蓋し遊行を以てその名と為す、所謂信を以て之を名(なづ)くるなり。
   於戯(ああ)翆帳紅閨、万事の礼法異なりと雖も、舟の中浪の上、一生の歓会これ同じ。余この路を歴てこの事を見るごとに、いまだ嘗より之が為に長大息せずといふこと莫し。何ぞそれ色を好む心を以て賢を好む途に近づかざるやと爾(しか)云ふ。

 

『遊女を見る』現代語訳


  長徳二年三月(ユリウス暦996年3月)、伊予守兼左馬権頭 源兼資は、春に四国に赴任の際、 その途上、山崎津に泊まる。山崎津は山城、河内、摂津の中間にあって、天下の重要な港である。西から東から、南から北から、行き交う人は必ずこの路を取らざるを得ない。
   この港の様子はといえば、特上の女性の色っぽさを売りつける者、役割分担し協力し合う年長の女と若い娘たち、それらの者達が住む邑の家々があちこちにある。 舟を家の前につなぎ河の中で客を待っている。 少女たちは白粉を塗り、歌を歌って男の心をなびかせ、年の行った女たちは傘をさしかけたり、棹を操ってそれぞれの役を果たす。 夫のある者は客を取った回数が少ないことを悔やみ、父母のあるものはただ、お客に呼ばれてお祝儀が多い事だけを願っている。 本来こんなことは誰も望まないが、浮世の現実でそうなったものである。 思うに、彼らを遊行というのは、その実態からそういうようになったものである。 ああ、翆(みどり)の帳(とばり)の中で女性と過ごすことは、婚礼と儀式作法が異なるとはいえ、 波の上舟の中であろうが、一生の楽しい出会いであることに変わりはない。 自分はこの(川筋の)路を通り、このことを見るたびに、いつも溜息が出る。 どうして色事にのめり込む熱意で、学問に打ち込めないものか、と(伊予の守源兼資は)語った。


<解説>


  この文は江口の遊女(遊び)の売春の面を述べたものである。とはいえ『翆帳紅閨、万事の礼法異なりと雖も、舟の中浪の上、一生の歓会これ同じ』という表現で明らかなように、平安時代には、場面がどうであれ、男女が交わり楽しむことには何の違いもないと、極めて肯定的であった。売春という後ろめたい否定的概念は後世のものである。


(2)遊女記(『朝野群載』巻3 文筆 下(記))大江匡房 大曾根章介氏書き下し


  山城国与渡津より、巨川に浮かびて西に一日を行く。この河陽(かや)と謂ふ。山陽・西海・南海の三道を往返する者は、この路に遵(よ)らざるはなし。江河南し北し、邑々処々に流れを分ちて、河内国に向かふ。これを江口と謂ふ。蓋し典薬寮(くすりのつかさ)の味原(あじふ)の牧、掃部寮(かむもりのつかさ)の大庭の庄なり。
  摂津国に到りて、神埼・蟹島(かしま)等の地あり。門を比べ戸を連ねて、人家絶ゆることなし。
倡女(うため)群を成して、扁舟に棹(さお)さして旅船に着き、もて枕席を薦む。声は渓雲を遏(とど)め、韻(しらべ)は水風に飄(ただよ)へり。経廻の人、家を忘れずといふことなし。洲蘆浪花、釣翁商客、舳艫(じくろ)相連なりて、殆に水なきがごとし。蓋し天下第一の楽しき地なり。
   江口は観音が祖(はじめ)を為せり。中君・□□・子馬・白女(しろめ)・主殿(とのもり)あり。蟹島は宮城を宗(むね)と為せり。如意・香炉・孔雀・立枚あり。神崎は河菰(かこ)姫を長者と為せり。
孤蘇(こそ)・宮子・力命・小児の属(たぐひ)あり。皆これ倶尸羅(くしら)の再誕にして、衣通姫(そとおりひめ)の後身なり。上は卿相より、下は黎庶(れいそ)に及(いた)るまで、牀第(ゆかむしろ)に接(みちびき)き慈愛を施さずといふことなし。また妻妾と為りて、身を歿するまで寵せらる。賢人君子といえども、この行(しわざ)を免れず。南は住吉、西は広田、これをもて徴嬖(ちょうへい)を祈るの処となす。殊に事る百大夫は、道祖神の一名なり。人別にこれを剜れば、数は百千に及べり。飽く人の心を蕩す。また古風ならくのみ。
   長保年中、東三条院は住吉の社・天王寺に参詣したまひき。この時に禅定大相国(ぜんじょうだいしょうこく)は小観音を寵せられき。長元年中、上東門院また御幸(みゆき)ましましき。この時に宇治大相国は中君を賞ばれき。延久年中、後三条院は同じくこの寺社に幸したまひき。狛犬・犢(こうし)等の類、舟を並べて来れり。人神仙を謂へり。近代の勝事なり。
   相伝へて曰く、雲客風人、遊女を賞ばむとして、京洛より河陽に向ふの時は、江口の人を愛す。刺史より以下、西国より河に入る輩は、神埼の人を愛すといへり。皆始めに見ゆるをもて事とするが故になり。得るところの物は、団手と謂ふ。均分の時に及びては、廉恥の心去りて、忿厲(ふんらい)の色興り、大小の譲論は、闘乱に異らず。或は麁絹(そけん)尺寸を切り、或は粳米斗升を分つ。蓋しまた陳平が肉を分つの法あり。その豪家の侍女の、上り下す船に宿る者、満繕と謂ひ、また出遊といふ。少文の贈を得て、一日の資と為せり。ここに髻俵・絧絹の名あり。舳(へ)に登指を取りて、皆九分の物を出すは、習俗の法なり。
江翰林が序に見えたりといへども、今またその余を記せるのみなり。


『遊女の記』現代語訳


  山城の国、与渡(よど)の津で舟に乗り大きな河(淀川)を一日下る。この場所は河陽(かや、現在地、山崎)という。 山陽、西海、南海の三道を行き交う者は全てこの地点を通る。水路が南、北に通じ流域の所々に村々があり、河内の国に向かう。 そこは江口という。恐らくこの場所は典薬寮の味原の牧、掃部寮の大庭の庄のある所である。
  摂津国に着くと神埼、蟹島(かしま)などの地がある。沿岸には家々が連なり人家が途絶えず続いている。倡女(うため)たちが群れを成して小舟で旅の舟に近づき、夜の席の勧誘に来る。
   声は美しくメロディは水や風に漂うようである。この水辺を舟でたどり通る人もつい家のことを忘れてしまいそうになる。洲に生える蘆に浪が当たって白い花のように砕け、釣をする者や商人たちの舟が群集しほとんど水面が見えないくらいである。思うにこの国一番の歓楽地である。 江口は観音という名の遊女で有名になったところである。中君(なかのきみ)、□、小馬(こま)・白女(しろめ)・主殿(とのもり)というのも居た。蟹島は宮城という遊女が始まりである。如意・香炉・孔雀・立杖というのもいる。神崎は河菰姫が仕切っている所である。孤蘇(こそ)・宮子・力命・小児などという遊女もいる。皆これらは倶尸羅(くしら)の生まれ変わりで、衣通姫(そとほりひめ)の後の姿である。上は大尽・貴族から下は庶民に至るまで隔てなくベッドの上でサービスを尽くしてくれる。また妻・愛人となって昇天するまで愛してくれる。如何に賢人君子でも皆そうなってしまう。出張サービスは南は住吉、西は広田まで行われている。遊女たちの守り神は百大夫というが、別名道祖神ともいう。各人それぞれ守り神を持っているので、百大夫の数は百も千もあるだろう。男の心をメロメロにする。これは古くから変わらぬことだ。
  長保の頃、東三条院(藤原詮子)が住吉の神社と天王寺に参詣されたことがある。この時、禅定大相国(藤原道長)は小観音という遊女をお召しなされた。長元の頃、上東門院(彰子)様もまたいらっしゃった。この時、宇治大相国(藤原頼道)は中君をお召しになった。延久の頃、後三条院もこの寺社に行幸された。この時は狛犬(こまいぬ)、犢(こうし)等の仲間が舟を連ねて集まってきた。これはまるで天国の天女のようだったそうだ。近年にない素晴らしき出来事であった。
   殿上人や風流人(金と暇がある人)が遊女を楽しもうと京都から河陽に向かう場合、江口の人を好む。受領以下の人たちや西国から淀川に入る人々は神埼の人を好むそうである。そういう人は皆、遊女初体験であったからだ。報酬は「団手」と言う。これを分ける時は恥も外聞もなく、怒りに色をなし、大小の言い争いはまるで喧嘩である。ある場合は麁絹を尺の大きさに切り分けたり、ある時は粳米を斗、升単位で分けたりする。そういえば陳平の肉を分ける方法というのもあった。そういう豪家の使用人である、はした女のうち、上り下りの船に寝泊まりしている者を『瑞繕』といい「出遊び」とも言う。少額の贈り物を貰い一日の生活の糧としている。そのような出遊びとして髻俵・絧絹が有名だ。舟の舳(へさき)に登指を取り付け半円状の取り付けているのは昔からのしきたりである。
   以上のことは江翰林(大江以言)の文(『見遊女』)にあるが、その後から現在までのことを少しばかり補足させてもらった。


解説


(1)与渡(よど)の津と河陽(かや)
  大曾根氏による冒頭の書下し文『山城国与渡津より、巨川に浮かびて西に行くこと一日、これを河陽(かや)という』を読むと
「淀(与渡)の津から船で一日下った所に河陽がある」と誤解しそうだ。しかし淀の津は巨椋池の西端にある河港で、河陽は現在の山崎地域の中国風地名である。つまり淀の津は河陽の中にある。平安時代初期に嵯峨天皇の離宮、河陽宮が置かれたので、この地名があるが、当時でも普通は山崎と呼ばれていた(栄花物語)。要するに漢文で書くと気取ってこういう言い方になる。とにかく、『自山城国与渡津浮巨川西行一日謂之河陽往返於山陽西海南海三道之者…』の書き下しについては要注意である。本稿では前記のように改めた。

(2)江口の遊女
  観音をはじめ、ここに挙げられている名は云うまでもなく芸名である。
(3)倶尸羅(くしら)
  補注によれば倶尸羅とは別名、好声鳥ともいい、インドの黒ホトトギスで、形は醜いが美声という。

(4)衣通姫(そとほりひめ)
補注によれば日本書紀、允恭記に見える伝説上の絶世の美女という。平安時代にはよく知られた伝説であったようだ。

(5)東三条院(円融天皇妃、一条天皇母藤原詮子)
  日本紀略によれば長保2年3月20日(1004年4月26日)東三条院は左大臣藤原道長らとともに石清水、住吉、四天王寺の参詣に出かけた。その途上3月26日江口の水上で多数の遊女の舟に迎えられた。倡女(うため、コーラスガール)の妙なる歌声は極楽を思わせるほどであったらしい。その夜、一行は川岸の宿に泊まり、道長は小観音という遊女の接待を受けたのである。ちなみに、この時のご祝儀として、詮子(のりこ)から米100石、道長から米50石がふるまわれている。

【6】上東門院(一条天皇中宮藤原彰子)   栄花物語(巻31殿上の花見)によれば上東門院は長元4年9月25日(1031年10月14日)石清水、住吉御幸では、関白藤原頼道を始め多数の殿上人がお供をし、賀茂川尻から乗船し、夜に到着した山崎で下船、石清水八幡に参詣、早朝再び舟下りして三島、江口を経由して住吉に向かった。この時、江口では多くの遊びが絢爛豪華な舟で出迎え、美しい歌声で歓待したという。(『左経紀』によればこの時遊女に支払われた報酬は絹300疋あまりという)

(7)後三条院天王寺御幸
  栄花物語(巻38松のしずえ)によれば延久5年2月20日(1073年3月31日)、譲位した後三条天皇(後三条院)は石清水八幡に参詣したのち麓の橋本の津から船で、淀川を下り住吉社、天王寺に参詣された。この時、随行した人は身近の方々と”遊びの方”だけであった。この遊びの方とは楽器を演奏する楽人のことである。当時の殿上人も笛、笙、琵琶などの心得があり、演奏しながら河を”遊び下った”とある。また、住吉社に参詣した際、”御遊果てて”帰られた、とある。この場合の遊びは神楽である。以上のように”遊び”とは、「楽器演奏」という意味で使われている。

 

参考文献


見遊女 :本朝文粋、p.60 新日本古典文学大系、岩波書店
遊女記 :古代政治社会思想 p.153 日本思想体系 第8巻 岩波書店
栄花物語全注釈6、p.277 松村博司 角川書店
栄花物語全注釈7、p.259 松村博司 角川書店


淀川流域の遊女(あそび)の活動空間
尼崎市の中世史料に一部地名を加筆
地形的には平安中期と大きな違いはないと思われる。
当時淀川下流は細流が多く、水郷地帯の様相を呈していた。
そのため、都から川尻で乗船し舟で石清水八幡、住吉神社、天王寺を舟で参詣することが出来た。

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