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日本における信用決済は寛平年間(889年~)に始まったか

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信用決済なくして経済発展はない


貨幣制度や信用決済がない時代には、旅行での資産携行や高額、遠距離間での商取引は非常に困難であった。奈良期の律令時代には、都に納税した帰りの運脚が途中で食料を調達できず餓死するということもあった。奈良時代には畿内での貨幣流通は相当なレベルにまで達したと言われるが、平安時代に入ると一転、貨幣不足に陥り、米や布による現物貨幣の社会に逆戻りしてしまった。平安時代前期には諸国の疲弊が進み駅制が機能しなくなり、役人の移動ですら困難な事態が発生していた。かといって国司帰任という長期旅行に所要の代替貨幣である米や布を全量携行するなどできなかった。では食糧や物資はどのように調達されていたのであろうか。
平安時代には既に現代の小切手、手形の原形ともいえる信用決済制度が出現していたと考えられている。そうでなければ国家規模の経済運営はできないからである。 日本銀行運営の貨幣博物館のHPには次のように解説されている。

11世紀~12世紀半ば 商品貨幣の時代
10世紀の銭貨発行を最後として銭貨流通が途絶えると、価値が安定した米や絹、布(麻布)が銭貨の代わりに貨幣として使われた。これらはモノの値段をあらわす安定的な価値基準として、銭貨に代わる貨幣としての役割を果たした。
米や絹・布(麻布)は持ち運びが不便だったことから、省力化のため信用取引が行われるようになった。中央の役所は、所管の倉などに支払いを命じた書類を出し、それが現在の小切手のような役割を果たした。』

 imes.boj.or.jp/cm/history/content/#Ancient 

以上の見解は素直に受け入れられるが、実はそれを裏付ける直接的史料はない。従来、手形など信用取引は平安末期院政期に歴史に姿を現すとされている。信用取引が最も必要な商品は米などの重量物である。平安時代後期の文書に出現する『替米』という語は信用取引を思わせるが、意味、実態はいまだ明らかではない。これについて品治重忠氏は年代別に史料を整理考察している。今後のさらなる研究を待ちたい。
https://tokyo-metro-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=1672&file_id=18&file_no=1


日本における信用決済の開始時期


平田耿二氏は『観世音寺資材帳』、『東大寺諸国封物来納帳』の研究からその日本における信用決済の開始時期を寛平年間(889年~)と推定している。この年辺りを境に寺の出納形式が変わるからである。その場合、当然関連法規が存在するはずである。この間の関連法令は伝わらない。これは菅原道真追放のクーデター(昌泰の変)後に道真の政治的事蹟が完全に記録抹消されたためと考えられる。
平田氏は著書の中で次のように述べている。

『観世音寺は諸費用をすべて調綿で支払ったのではなく、寺印を捺して兌換を保証した切符を業者に渡し、 切符に記してある輸納国(調を納めた国)の倉庫、つまり観世音寺の封戸が置かれている国の倉庫(大宰府周辺に 九州諸国の倉庫が置かれていた)に行けば、 いつでも切符に記されている額の調綿やそれに見合う物品の交換してもらえるしくみとなっている。
 切符というのは、その意味では手形ということになる。平安時代は布や米が貨幣の代わりをしていたというのが定説で、 読者もそのように考えられたであろう。 しかし、道真の時代からは既に銭貨よりも手形の方が流通していたのである。 清少納言や紫式部たちが国営市場である東市に買い物に行くのに布や米を牛車に積んで従者がお伴をしたわけではない。 家司が準備してくれた切符を持参すれば、額面の銭・布・米にみあう物品を「
禄物価法」の定める公定価格によって、なんでも買えたのである。』
平田耿二:『消された政治家 菅原道真』p153 、文春新書

平田氏の説は状況からみて、非常に蓋然性が高い。しかし残念なことに肝心な平安時代前期の切符、もしくはそれに関する国符などの文書が発見されていない。 『観世音寺資材帳という史料』から言えることはこの時期(889年~)に会計方法において大きな改正があった可能性にとどまる。


更級日記、菅原孝標の旅で想定される物資調達の方法


国司帰任の旅の物資調達に限定すれば、必ずしも新規の仕組みがなくても、既存の法体系の中でも可能である。例えば次のような決済方法が可能だろう。
菅原孝標ら貴族には位禄等、位による報酬がある。これは本来、京都で支給さるべきものであるが、 地方に派遣された国司などには次第に任地で支給させるようになった。 言い換えれば中央から地方へのツケ回しである。例えば、五位の支給物のうち絁(あしぎぬ)は4疋支給される。 上総国衙は駿河国に代理支給を依頼する書面を発給して、菅原孝標が駿河国の国衙を通ったとき、禄物価法による換算比率で米を支給してもらえば4×80=320束の穎稲、すなわち6.4石(現代の升で)の米が得られる。米を受け取った孝標は駿河国衙に上総国衙発行の支給依頼書と共に、返抄(領収書)を渡すだけでよい。駿河国衙は中央に上進すべき産物からその分を差し引いて納税し、年度末にこれらの書面を他の決算書類と共に京都に提出すれば中央の官庁(大蔵省)で、上総、駿河国間の貸借関係を清算する。


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