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観世音寺資財帳に残された平安時代の新決済制度発足の痕跡

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筑紫観世音寺


  天智天皇の勅願により養老7年(723年)に建立された。 763年に戒壇が設けられ西海道の僧尼の受戒の場となった。749年に500町が施入され、平安時代に入っても官寺として栄えた。 康平7年(1064)火災にあい、以後寺勢が衰微する。


観世音寺資財帳(国宝、東京芸術大学蔵)とは


  観世音寺の固定資産(土地、建物)、備品、資材、動産、奴婢 など所有する全ての資産を太宰府に報告した 資産台帳。一度ならず作成され現在、3回分残っている。 ここで取り上げる資財帳は最も古いもので延喜5年(905年)に作成されている。寺印が押された原本である。この資財帳には平安時代の信用決裁制発足の痕跡が残されている可能性がある。

資財帳の内容は資産の種類ごとに「塔物章」「通物章」「用器章」etcに分類している。 平田耿二氏が指摘する資産管理上重要なカギとなる部分は「通三宝物章」である。 通三宝物章には主として調綿の収支が時系列に従って記入されている。 調綿とは調として納入された絹の綿で実際に布団、綿入れ衣類の材料としても使われるが、 同時に太宰府管内(九州)では代替貨幣としても使用されていた。この章では貨幣としての機能で記帳されている。 観世音寺は太宰府から支給された調綿を使って施設の新調や修理を行っている。 タイトル画像の収支表によれば寛平8年(896年)の修理を最後に調綿2屯を残して記帳が途絶えている。
この資財表は延喜5年(905)に作成されているので約7~8年分が記帳されていないことになる。 記帳すべき仕訳がなかったのか、あるいは記帳方法の変更、改正があり、ここに記入することが適当でなくなったので 書かれていないのか。最後の記帳の後に7行の空白がある。これは一体何を意味するのだろうか。平田氏は次のような信用取引が発生したと考えている。寛平8年以降、調綿の現物支給が停止され、代わりに調綿納付国から納付決定書が寺に届いた後、寺は支出が生じた際、その都度、寺印の押された支払い”切符”を業者に渡し、その支出合計額が納付額に達した後、返抄(領収書)を納付国に出して最終的に決済する。こうした取引は調綿の現物が大宰府や寺を経由せず全くの信用取引となる。
このために資財帳に記入する必要がなくなり寛平8年以降が空白になったと考えられる。 巻物状に書かれた通三宝物章の問題箇所の原文を別ページで示す。
  ただ、単に記帳方法の変更なら、7行の空白を空ける必要があるかという疑問が残る。これに対する答えは、恐らく書類作成担当者が『これでいいのだろうか?』と思うくらい、当時では衝撃的改革であり、後で何かあった時に書き加える余白7行を残したと想像される。
著書に述べられているように、改正の内容は関連法令が残されていないので、想像の域を出ないが、おそらくこの時期に日本の『信用決済制度』が正式にスタートしたと考えたい。とはいえ現物経済でやってきた人が『信用決済』など、うさん臭くて信じられなかったのは、多くの現代人が仮想通貨ビットコインなど信じられないのと同じだろう。
参考文献 平田耿二:『消された政治家 菅原道真』p.153(文春文庫)


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