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駿河国西部の平安時代東海道がかつての駅路、日本坂から早い時期に宇津ノ谷峠(蔦の細道)に変更された理由

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  駿河国は安倍川西岸の高草山山塊で東西に分けられているが、この間の交通は極めて限られている。街道として海岸に近い日本坂の峠道を通るコースと東側の宇津ノ谷峠を通るコースのみである。その他に大崩海岸を通る道もあったと言われるが、波浪による浸食で安定せず主要ルートとなることはなかった。
本稿では東海道が当初の日本坂コース(駅路)から、どういう理由で伝路といわれた山深い『蔦(つた)の細道』(宇津野谷峠)に変更されたかを探る。更級日記はこの地域の通過コースについては触れていない。

延喜式によれば駿河国西部を通る東海道は遠江の初倉駅から小川駅(現在の焼津市小川)迄直線的に大井川扇状地を横断し、そこから日本坂を越え安倍川河畔に出るコースであった。これは下記の万葉集の歌で裏付けられる。

焼津辺にわがゆきしかば駿河なる 安倍の市道にあひし児らはも』春日蔵首老(万葉集巻三284)
『焼津辺 吾去鹿歯 駿河奈流 阿倍乃 市道尓 相之児等羽裳』
(焼津のあたりに わたしが行った時に 駿河の国の安倍の市道で逢ったあの子よ)
日本古典文学全集、万葉集(1)p.215、小学館。※この歌意解釈は意味不明。『万葉集に見る奈良時代の浮浪児事情』を参照
上の万葉歌の存在で少なくとも奈良時代までは東海道は日本坂を越えていたことが分かる。 延喜式は延長5年(927年)完成した法令集で、これから平安時代前期までは駅路が存続していたように見えるが、延喜式は完成時点で既に内容が陳腐化していたといわれる。
平安時代に東海道は宇津ノ谷峠経由になったようだが、いつの頃であるかは明確ではない。その初出は伊勢物語の在原業平の東下りの段である。在原業平の東下りについて古くは創作という説もあったが、現在では事実に基づくと考えられている。この旅行は角田文衛氏の考証によれば貞観4年(863年)夏の事とされている。伊勢物語からこの道は『蔦の細道』と呼ばれることになったが、文字通り細く険しい山道である。『業平の東下り』:王朝の映像p.208 角田文衛(東京堂出版)


(1)駿河国西部の駅路東海道


  延喜式に駿河国内の駅路は以下の様になっている。
(遠江国初倉)⇒小川⇒横田⇒興津⇒蒲原⇒永倉⇒横走
小川駅は現在、焼津市に小川の地名が残る。駅家の遺構は発見されていない。小川駅から東北に向かいは日本坂を越え安倍川河畔に出る。この区間については字名に「鈴の宮」など名残りが見られ、現在の道路にも駅路の痕跡が見られることが古くから指摘されていた(『古代日本の交通路Ⅰ』p.137:金田章裕、大明堂、昭和53年)。一方、小川駅家の南側を流れる黒石川を境に大井川扇状地には駅路らしい道路痕跡は全く見られない。このことから駅路廃絶はこの地域の地質が関係していることが推察される。

現代の道路図にも残る小川駅以北の駅路の名残
現代の道路図に残る駅路の名残

下に示す地質図から小川駅以南は古い時代には湿地であったことが見て取れる。 奈良時代には既に陸地化していたとみられるが、台風時の高潮、梅雨の季節には容易に冠水し再湿地化したことが推察される。 また河川整理が全く行われていない時代には上流の大井川は下流域で網状に広がり雨の季節には海岸部に大量の水を排出したと思われる。 そのため、乾季や雨の少ない年には通行可能であったと思われるが道路は失われていて、 道なき道を方角を頼りに扇状地を横断していたことだろう。 平安時代に宇津ノ谷越えとなり距離が短くなっても大井川扇状地の横断は必要であった。 更級日記で言及された『ぬまじり』はその扇状地通過時の悪路について述べたものである。

 大井川扇状地地質図
大井川扇状地地質図
日下雅義『歴史時代における大井川扇状地の地形環境』(1969)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjhg1948/21/1/21_1_1/_pdf

 


(2)宇津ノ谷峠、蔦の細道を辿る平安時代東海道


  宇津ノ谷の山中を通る東海道は平安時代から近代にいたるまで同じコースであったわけではない。長い時代、蔦の細道という細い山道を辿るコースが続いたが安土桃山時代に変更を余儀なくされている。豊臣秀吉の小田原攻めに際し大量の物資、人員を輸送するため細道の西側に新道が開かれた。江戸時代に入りその時のコースと同じであるかは不明だが、現在残る旧江戸時代東海道が開かれた。明治に入り更なる交通量の増大に伴い東海道の下に人道、馬車用のトンネルが開削され通過時間が大幅に短縮された。
宇津ノ谷峠地形図東海道
平安時代~戦国時代:蔦の細道、最高地点標高195m
江戸時代:近世東海道宇津ノ谷峠、最高地点標高185m
明治9年:明治トンネル
昭和5年:昭和第一トンネル
昭和34年:昭和第二トンネル
平成7年:平成宇野ノ谷トンネル(上り専用)

 

(3)歴史的東海道の探索と復活


  宇津ノ谷峠を越える江戸時代以前の東海道は、明治以降トンネルを経由するようになったため、わずか数十年にして、参勤交代が通過していた堂々たる街道のルートが分からなくなっていた。まして、それ以前の『蔦の細道』など、全く文学上の幻の道に過ぎなかった。実際、明治22年測図の5万分の1地形図には『蔦の細道』はもちろん、『江戸東海道』らしき道路は描かれていない。使われない山道はあっという間に自然に呑み込まれてしまうという実例である。
昭和40年代に、この両古道の再発見が行われた。この発見のきっかけは地元の歴史愛好家の郷土愛と探究心であった。その後、自治体の手も加わって、遊歩道が整備され現在、外部から訪れる者も安心して歴史探訪を楽しむことが出来る。
その経緯は下記、春田氏の参考文献に詳しい。安倍川西岸の丸子、長田地区、歴史的東海道の歴史については下記2著にほとんど網羅されている。著者らは既に鬼籍に入られたが、その功績は朽ちることはない。戦後の土地開発で今では痕跡すら見いだすことが難しくなった過去の様子を、ぎりぎり最後の状態で記録していただいたことに感謝したい。
残念ながら著作は地方出版であるため入手困難である。筆者は地元、丸子にある、とろろ汁で有名な丁子屋さん(静岡市駿河区丸子7丁目-10-10)で見つけ購入した。

  『ふるさとの東路 知られざる万葉の道』 滝本雄士 ㈱池工務店 平成7年
  『新・丸子路考』 春田鐡雄 静岡谷島屋 昭和58年


江戸時代の丸子
丸子は東海道の東側入口。
歌川広重、東海道五十三次 鞠子より
江戸時代の岡部
岡部は東海道の西側入り口です。
歌川広重、東海道五十三次 岡部より

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