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竹芝寺裏伝説その1

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平安時代東海道を京に上る
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内親王誘拐事件の真相


 話が終わる頃、この寺を預かる僧が外出先から戻ってきた。
「これは、上総の前司様、お疲れになったでしょう。よくお立ち寄りくださいました。何もおもてなしできませんが、ごゆるりとお休みください。」
 ここで、私たち子供は寝部屋に引き取り、代わりに一しきり仕事を終えた、虎吉と三郎、源造など主だった者が呼ばれた。寝床で横になっていると、向こうの方から
「源造はどうした。まだ、手間取っているのか」
 と、父の声がする。
「いや、源造はどうもこんなお席にご一緒するのは苦手だと、遠慮しているのです。後で酒でも少し持って行ってやりますので」
と、虎吉の声。
「そうか、折角、酒など飲みながら合戦の手柄話でも聞かせてもらおうかと思っていたのに残念だな。
ときに、先ほどまでこの寺の由緒など聞かせてもらっていたのだが、こんな草深いところに宮様がお住まいになっていたとは、驚きだな。あれは本当の話であろうか」
と父が僧に向かって話し始めた。
「ああ、お聞きになりましたか。いや、確かにそれは本当の話です。」
「しかし、よくも帝がこんな田舎に宮様をおやりになることを納得されたものだ。信じられん話だな。」
暫く声が途絶え雨音を聞くうち、低い僧の声がして、驚くべき話が始まった。

 

実は、確かに宮様はおいでになったのですが、その経緯は、お聞きになった話とは、かなり違うのです。先ほどの、お話はいわば御伽噺で姫様たちには面白いお話かと存知ます。しかし、もう古いことで伝え知る者も少なくなりましたが、この寺には当時の事情が書き記されて残っておりました。その原本はご存知の『将門の乱』(承平5年西暦938)のときに略奪に会い、失われてしまいました。ただ、ことが落ち着いて後、寺の住持が宮様の御事跡が永遠に失われるのを惜しみ、それを記憶で再び書き起こしたものがあります。残念ながら年号、関係者の名前、官職は記憶が正確でないので、書き記さなかったということです。それによりますと、その事件は東国を揺るがすかなり深刻な事件であったのです。まづ、ことの発端の火焚き屋の衛士となって都に上ったのは嫡子ではないのですが郡司が竹芝郷の女に生ませた子となっております。母親はこの竹芝郷の郷長の娘で、その家では酒も作っていたといいますから、あながち御伽噺も作り話でもありません。そして都に上り、火焚き屋で先輩からいじめにあっていたことも大体その通りでしょう。いつの世にもよくあることですから。いじめに耐え兼ね、逃亡を決意するのですが、何せ当時は『延喜の治』(902~907頃)の前でございます。下々は田舎に限らず、都ですら満足に食べるもののない時代です。下手に逃亡しても、飢えて野垂れ死にするのは目に見えています。その郡司の息子は同じ東国から来た衛士二人とひそかに語らい、三人で逃亡の計画を立てたのです。しかし、自分たちの手元にある道具類を持ち出したところで、たいした路銀にはなりません。一人が御殿で、時々見かける美しい着物を着た女童(めわらわ、少女の召使)をかどわかし、女童と、その衣装の両方を売れば何とか帰り着ける路銀になるだろうと言い出したのです。確かに、その女童は御殿の庭の掃除をしている衛士に気安く声をかけたり、蒸し暑い宵には一人で高欄のところで涼んで居ることもあったのです。実はそれは女童などではなく、姫宮様だったのですが、衛士には、そんなことを知る由もありません。

 計画が決まり、一と月も二月もじっと機会を狙っていました。火焚き屋の衛士ですから、忍び込む必要もなく、それこそ只、待つだけでよかったのです。しかし、なかなか機会が訪れないうちに秋になり、焦りが出てきた頃、あの女童が現れ、高欄に寄りかかり一人月を眺めているのです。合図をして、静かに忍び寄り頭から着物をかぶせあっという間に、一人が先導し二人で宮中から担ぎ出したのです。勢田の橋を壊したのもその通りでしょう。連中は都の近くでは怪しまれるので、尾張あたりまで行って女童を売り飛ばすつもりでおりました。衛士たちは大事な商品だからと怪我をさせないよう、川を渡るときには背中に負ぶったり、食物も食べやすいところを選んで分け与え大事に扱っていたのです。
ところが、数日旅をしているうちに、この女童が只者ではないことに気づきます。宮様は絹の着物を脱がされ、都の街女のような粗末な着物を着せられ、当初は口もきけないほど怯えていたようです。しかし衛士たちが、危害を加えるつもりがないことが分かると、落ちつきを取り戻され、
「私をどうするつもりか知らぬが、今更逃げられもせぬ。黙ってついてゆくから、見張りなどする必要はない。」
と、凛とした声でおっしゃったのです。ここで衛士たちは大変な間違いをしたことに気づき愕然としたのです。しかし、宮をどうするか決めぬまま、男三人、女一人からなる正体不明の若者の群れは旅を続けてゆくしかありませんでした。そして、尾張の国府に近づいた頃、相模から来ている仲間の一人が、まことに怪しからぬことを言い出したのです。
「おい、俺達はどうせ宮様を盗むという大罪を犯したんだ。もう着物は売り飛ばし食べる物も少なくなってきた。逃げ帰るには宮だろうが何だろうが売って食い物に換えないことには、野垂れ死にだ。前に相談したように尾張で人買いに売ってしまおう。」
ここで一息入れ、にやりとして
「どうせ人買いに売るんなら、その前にやらしてもらおうじゃないか。」
一人は驚き、
「人買いに売ったら、口が利けるんだから宮が身分を明かさない訳はないだろう。いくら人買いでも大罪の片棒を担ぐより届け出て、恩賞を貰うほうがいいんじゃないか。俺たちが捕まってしまうぞ」
 「馬鹿だな、誰が宮様がこんなところに居るなんて思うもんか。娘の頭が少々おかしいと思うだけだ。しかし、どちらにしてもだな、そろそろ頂いてもいいんじゃないか。」
 竹芝の男は二人のやり取りを聞いていたが、
 「宮様はもう連れてゆくしかない。人買いに売ろうとしたり、妙なことをしたら間違いなく死ぬ。食い物は川で魚を取ったり、畑で盗んで何とか食いつなごう。それに宮は道標を読ませるのに便利だ。俺たちは字が読めないからな」
 相模の男は、これを聞くと
「なにい、お前は宮に気があるんじゃねえか。畑荒らしをするつもりなら、最初から人さらいなどせず、手ぶらで逃げればよかったんだ。こんな大罪に巻き込んでおきながら今更何を言うんだ。」
 実は、相模の若者はこの旅の一行でただ一人の娘である宮様が、無言のうちに竹芝の男に心を傾けてゆくのを、彼を見る宮のわづかなまなざしに感じとっていたのです。お分かりでしょう。この逃亡する若者集団では、もはや身分など関係ありませんでした。いにしえのように実力と男らしさが女の心を捉えるのです。竹芝の男は、やはり郡司の息子だけに、何をするにつけても一頭、他を抜きん出ていました。相模の男が宮を手篭めにしようと言い出したのも実は嫉妬からだったのです。本当のところ、誘拐された宮を含めこの四人の若者の群れは、いつしか一つの絆で結ばれた仲間となり、今になって宮を売り飛ばそうという気はなかったのです。宮様は恐れ多くも、この道中で狼よけの夜の火の番にも自ら加わられ、食事の仕度までされるようになっていました。相模の男はちょっと痛いところを突いて、竹芝の男を牽制しようとしただけなのです。しかし、結局、相模の男の嫉妬は大きな不幸を呼んでしまいました。竹芝の若者の落ち着き払った態度にカッとなり、いきなり殴りかかったものの、逆に足を払われ、尾根道からあお向けに下の岩に落ちてしまったのです。若者たちは尾張を目前に山中にとどまり、二日間、彼を看病しましたが、遂に息絶え、遺体を残して山を降りたのです。その夜、山の方から聞こえる狼の遠吠えに、皆、大泣きに泣いたと記されております。

このようにして、昼は山陰に隠れ、夜は畑から食べ物を盗みつつ東海道を逃げ帰ってきたのですが、もう一人の下総の男も、遂に故郷に帰り着くことは出来ませんでした。富士川で雨上がりの急流に流されてしまったのです。宮様を背負っていた竹芝の男は、どうすることもならず、流されてゆく彼を目で見送ることしか出来ませんでした。残された二人は岸に上がって呆然とへたり込み、抱き合ってただ涙に暮れるだけだったといいます。その夜、二人は自然の成り行きとして夫婦となったのです。

 

図は女を背負う男(北野天神縁起絵巻四の一、承久本、完全復刻本/大塚巧藝社)
男は棒を両手で背の後ろに渡し、衣被(きぬかずき)をすっぽりかぶった女がその上に足を乗せ、背負われている。



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