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更級日記の一行が天竜川河畔で設けた仮屋とはどういう建屋か

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  更級日記の菅原家一行は娘の病気のため天竜川河畔で仮屋を建て、暫し逗留することになった。その滞在日数は不明だが、仮屋まで建てているので2、3日でないことは明らかだ。おそらく1週間程度はとどまったと想像される。
   では間に合わせに建てた「仮屋(かりや)」とはどんな建屋だろうか。通常の移動では現代で言うテント(庵)を張るが、風雪が厳しい季節には麻地のテントではとても過ごせない。更級日記の旅で、どのような仮屋に泊まったかは記述がないが、一つの仮説として半地下方式が考えられる。その仮説の基礎として日本の住居の基本であった竪穴式住居の屋根構造について触れる。

※タイトル画像は天竜川の水運が最も盛んだった昭和初期の写真である(現地案内板)。浜松市中野町あたりから撮影されたと思われるが対岸である天竜川東岸の河岸段丘地形が良くわかる。


竪穴式住居の屋根構造


  日本人は縄文、弥生、平安時代にわたる長い時間を竪穴式住居という穴居(けっきょ)で暮らしてきた。このような住居を総称して穴屋という。住み心地が良いとは思えないが穴屋では最小限の建築資材で冬の保温性を確保できる。これらの屋根は長く茅葺と考えられてきたが最近の考古学の成果によると竪穴住居は茅葺でなく土と茅の二層構造あるいは茅、土、茅の三層構造で葺かれていたことが分かってきた。
石野博信、古代住居の話、p.218、吉川弘文館
詳しくは
群馬県渋川市中筋遺跡(5世紀後半の火山灰で埋まった村)群馬県渋川市行幸田795
http://www.ohoka-inst.com/nakasuji_iseki222.pdf
縄文時代の竪穴住居についても、これまで茅葺屋根として復元家屋も茅で葺かれていたが、それは間違いで、縄文時代にも土と樹皮、茅などの複層であったことが判明している。
産経新聞2021年8月2日『縄文の復元住居土屋根が主流に、発掘成果 変わる茅葺の景観』

以上のことから弥生時代以降の竪穴住居でも当然、土、茅などの複層屋根であったと考えられる。またそう考えなければ、保温衣料のない時代に厳寒期を乗り切ることは出来なかった。

時代を下り平安時代にも農村の住居は依然として竪穴式住居であったとされるが、実際には暖地では平屋がかなり普及していたようだ。一方、信濃等の寒冷山間地では冬の住居として依然として竪穴式住居が使用されていた地域もあった。つまり、平安時代に生きる人にとっては穴屋は少なくはなったが決して珍しいものではなかった。鎌倉時代に至っても穴屋の名残は畿内(近畿地方)にすら残っていた。鎌倉時代に描かれた絵巻には半地下式の倉庫と思われる建屋が見られる。
下の図に示すように、『粉河寺縁起絵巻』、『信貴山縁起絵巻』には傾斜地に穴を掘り、そこに板葺の屋根をかけた建屋が見られる。たぶん住居ではなく里芋など保温を要する収穫物を保存する後世の室(むろ)、土蔵のような建屋ではないかと思われる。竪穴式住居と異なる所は平地ではなく傾斜地を利用して、斜面を掘り込み、片流れの屋根をかけているところである。こうすれば資材が更に少なくて済み、屋根が低いため風をかわして寒さを防ぎやすい。


平安時代には緊急避難小屋は必須であった


  平安時代には宿場が整備されていなかったので宿泊は集落があれば有力者、寺社に宿を借りるか、テント(庵)を張っての野宿である。しかし、寒波、積雪、強風、大雨ではテントごときでは対応できない。その際、対策としてもっとも容易に思い付くのは斜面に横穴を掘ってありあわせの材料で屋根をかけ避難小屋を作ることである。下図のような穴を掘り屋根部に垂木を懸け枝葉で覆って掘り上げた土で葺けば比較的短時間で避難小屋ができる。想像にすぎないが集落から遠い宿営地にはこういう避難所が作られていたのではないだろうか。それは必ずしも毎回新設するのではなく誰かが前に作ったものを補修、再利用していたかもしれない。でなければ、天候急変の際には東海道という幹線道路といえども多くの人々が遭難したはずである。


半地下式避難小屋の想像図


  河岸段丘で形成される天竜川東岸は江戸東海道の渡河地点で標高約10mである。平安時代にもこの辺りで渡河したとすれば、この川の土手のどこかで宿営したと考えられる。ここで半地下構造の仮屋を作るとすれば、下図のような構造が最も簡単である。土手の上は水はけが良いので仮に雨が降り土間に水が入ったとしても排水は早い。まず周囲の木を伐り払い丸太を作る。斜面に深さ60ー70cmで長方形に掘り込み、土止めのため穴の内周には杭を打ち込む。杭の上には横木を渡し、その上に垂木を並べる。川岸から刈り取ってきた葦または葭の束を垂木に固定する。隙間なく敷き詰めたらその上に掘り上げた土を屋根に乗せて覆う。床から天井の高さは当時の人は身長が低いので、奥の方でも大よそ150-160cm程度で十分だろう。
平安時代の半地下構造の避難小屋想像図


鎌倉時代にも残る半地下建屋


  絵巻物に書かれた半地下式建屋について宮本常一氏は次のように解説している。 『こうした土豪・長者の家に対して、一般庶民の家も描かれている。讃良の長者が、粉河へ赴く途中の風物に見い出される。一般民家の特色は土間を持っていることであるが、破風に(弓の)的を描いたものは竪穴式の半地下床になっている。このような住居は原始時代から見られるものであるが、鎌倉初期の頃には近畿地方にもなおかなりの分布を見ていたものの如く、「信貴山縁起」にも、屋根だけの家が描かれており、それにもこの絵巻と同様に破風に的が描かれているのである。』(宮本常一)
粉河寺縁起絵・吉備大臣入唐絵、日本絵巻物全集6、解説p.22,角川書店
下に示す絵巻物の半地下建屋はいずれも斜面に建てられていることが特徴である。屋根は板葺であるが、その下には土の層がある可能性もある。板屋根は雨で土が流れるのを防ぐためとも考えられる。

※現代まで残った穴屋:住居でなく作業小屋的なもの、室として使われていた半地下小屋は地方によっては、つい戦前まで残っていた。

信貴山縁起絵巻に見る傾斜地に建てられた半地下建屋
粉河寺縁起絵巻に見る半地下構造の建屋


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