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更級日記に登場する清見潟のある海は明治時代にも田子の浦と呼ばれていた

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更級日記に登場する田子の浦(たごのうら)は清見の関に面する水面であるということを続日本紀の記事を根拠に既に論じた。
ところが清見潟、三保の松原で囲まれる海は明治になっても『田子の浦』と呼ばれていたことを発見したので、参考文献として収録する。
 明治初期の文人、高山樗牛、明治35年没(1871-1902)は小説『滝口入道』(1894)で文壇登場し、以後旺盛な評論、文筆活動を始めた。 目前にしていたヨーロッパ留学後、京都大学教授に内定していたが、 肺結核のため闘病生活に入り2年後(1902)に31歳の若さで亡くなった。 樗牛は現在の静岡市清水区の清見潟の風光を愛し数度逗留している。 下記の小品『わがそでの記』は明治30年6月、26歳の時に書かれたものである。
 この作品の引用目的は、関東大震災前の地形変化を受けない時代の清見潟、三保の松原の地理的景観を見ることである。 (その部分を黄色の背景でしめす)。 しかし文芸作品としてみても青年樗牛の絶望感、孤独感には心打たれるものがある。 当時、若くして死病であった結核をかかええていた作者が見た天女をめぐる夢には誰しも同情、哀惜の念を禁じ得ない。 本来、関係のない部分は割愛すべきだが、あえて全文を掲載する。 なお、明治の作品に現代語訳は余計だが、分かりにくい語彙があるので拙訳をつけた。
※田子の浦曲(たごのうらわ):浦曲とは海が半島、砂州で囲い込まれた地形
※富士の嶺を背景に清見潟に上がる水煙は明治に至っても千年前と変わらぬ秀逸な景観であった。
「以下引用」


わがそでの記  高山樗牛


  弥生のはじめわれ熱海を去りて、清見が関の古跡をとひぬ。
  松風遠く吹き合わせて、波の音も幽なる思ひまさる夕べなりき。
  われはひとり宿を立ちいでゝ、三保の松原にあそぶ。入日の影は雲にのみ残りて、月未だ上らず。田子の浦曲の夕なぎに、千鳥の声もいとまれなり。江尻、しみづをはやすぎて、龍華寺の輪塔を右手に見つ。袂にさむき山おろしに、入相の鐘を吹きおくりて、はつ春の哀れ一しほ深くや。三保にたどりつけるころは、月やうやく上り、清見潟の水煙は関路はるかにたてこめて、富士の高根に雪の色しろし。見わたせば一帯の松林、木ぶかくも生い繁るかな。木立のふるへる月のあかりに残むの雪の色さへて、杜の下道杳(はる)かなる霞に落つる影も無し。波の音やうやく近くして、われは羽衣の松にそうて立ちぬ。
  羽衣の松はわが年久しく思ひこがれしものなりき。よしさらば、こよひ月とともに立ちあかさむかな。
  松は早く枯れて、幹のやれたるが残れり。そのもとにゆかりを誌せる石ぶみありしが月の光おぼろにして見えわかず。あはれ波の音と松風のみぞ、今も昔にかはらざりけむ。
  われは夜もすがら松のこかげに泣きくらしき。そのなにゆゑなるを覚えざりき。頼りなき身のたゞひとり、するがなる三保の松原に泣きあかすよと思へば、われは涙のながるゝを忍びあたはざりしなり。吾れ泣けばとて、誰か哀れと見るべきぞ、われ笑へばとて誰か楽しと見るべきぞ。ひろき天地の間にわが胸の琴は群をはなれし雁がねの、たぐひなき、寂しき響きすなり。われはたヾかく思ひて覚えず号哭しき。
  想ふむかし、われにもあまつ乙女ありき。されど其乙女はまことあるものには非ざりし。かくてあだなる思ひに吾が胸はやぶられき、いえざるべう傷られき。 よろづのさいはひはかへらざるべう吾れを去りき。
  月は半天にのぼりて地には人のけはひだにあらず。あゝ月よ、長(とこし)へに其の歩みを止めよかし。永久の夜の是世界を覆ひつゝめよかし。風よ吹け、波よくだけよ。松は其のひヾきをならせよかし。かくて人間の声を天籟の中に埋め了れよかし。
  夜しづかにしてわが声は遠く松原のあなたにひヾきわたれり。されども月にうつれる吾影はひとつなりき。
  是夜夢に天女を見しがかれ羽を持たざりき。そのしろき百合の如き指もて、わが胸を抑へしとき、われはことばなく泣きくづをれて、このまゝ露となりても解けよかしと願ひぬ。されどわが耳にさゝやけるかれが言葉は、われを咀へるものなりき。さめてのち、われ天女の名を問はざりしを悔やみぬ。(注:羽衣を返せと責め立てる言葉のことか?)
  清見が関の幾夜はかゝる思ひにあけたりき。弥生もなかばすぎて、花やこの世の楽しき時を、われはまたあてなき旅にうきみをやつしぬ。あるは静浦のほとりにさすらひて、桜がしまの遺韻をたづね、あるは伊豆の山にわけ入りて、修善寺に薄倖将軍の墓をとふらひ、ゆきゆきてうづきのはじめ、湘南に入りて田越の里に客となりぬ。あゝわれやいづこに我がが満足の地を求むべきか。
  嘲風、芥舟、都より来り訪ふ。われまたハイネの外に友を得たり。薄暮潮に乗じて海に漕ぐ。嘲風艪をとりて立ち、われ舳によりてハイネを読む。芥舟舷をたゝいてこれに和す。されど三たりの感ずるところ相同じきを得べきか。(明治卅年六月)

『清見潟に於ける樗牛』p.2、東京堂書店  (明治38年11月)
「以上引用終わり」


<わがそでの記 現代語訳>


  4月の初め私は熱海を去って清見が関の古跡を訪れた。
  遠くの方では松原に吹く風がざわめき、静かな物思いのような波の音が聞こえる夕べであった。私は一人宿を出て三保の松原を散策した。夕日は雲にわずかに残るだけだが、月はまだ上がっていない。田子の浦曲(うらわ)は夕凪の時分だが千鳥の声もほとんどない。江尻、清水を通り過ぎ龍華寺の輪塔が右手に見えた。山からふきおろす風が袖に入り、その風に乗って(夕暮れを知らせる)入相(いりあい)の鐘が聞こえ早春のさみしさも一しおである。三保にたどり着いた頃にはようやく月が上り、清見潟の水煙は、はるか対岸の関路に立ち込め、富士の高根は雪で白くなっていた。見渡すと一帯の松林には木がびっしりと生い繁っている。揺れ動く木々の間から漏れてくる月あかり残む(不明?)の色の雪の色がさえ、杜の下道はかすかに靄がかかり何も見えなかった。波の音が近くなりようやく私は羽衣の松のそばに立った。
  羽衣の松は自分が長い間見てみたいと思い焦がれてきたものだった。よし、これから月と一緒に夜明かしをしよう。
  松はとうに枯れ幹の皮だけになって残っている。木の下に由緒を書いた石碑があったが月の光が弱くなんと書いてあるかわからない。今も昔も変わらないのは波の音と松風だけだ。
  私は夜通し松の木陰で泣き明かした。それがどうしてなのかわからない。孤独な身一つで駿河の三保の松原に泣き明かしているよ、と思うと、私は涙が流れるのを止めることができなかった。自分が泣いたとて誰が可哀そうと思ってくれるだろうか、笑ったからとて誰か楽しいんだねと思ってくれるのだ。私の胸の琴は広い天地の間で群れから外れた雁のどうしようもない寂しさと同じ響きがしている。私はこのように思えてつい慟哭してしまった。
  昔のことを思い出すと私にもあまつ乙女(天女=恋人)があった。しかし、その乙女は誠実な人ではなかった。そうして浮わついた思いに自分の胸は破られ、決して癒えない傷を負ってしまった。あらゆる幸せというものは自分から去り、戻ってくることはなかった。
  月は天の半ばまで上ったが、地上には人の気配は全くなかった。あゝ月よ、とこしへにその歩みを止めてくれないか。永久に夜であるこの世界を、(その光で)覆い包んでくれ。風よ吹け、波よ砕けよ、松はその(ざわめく)響きをならしてほしい。そうして人間の声を天籟(風の音)の中に埋め込んでほしい。
  夜は静かで自分の声は遠く松原のあっち側まで響きわたった。しかし月の光に映し出される自分の影は一つであった。
  この夜、天女の夢を見たが、彼女は羽をもっていなかった。ユリのように白い指で私の胸を押さえたとき、自分は言葉もなく泣き崩れて、このまま露となって解けてくれと願った。しかし、私の耳にささやいた彼女の言葉は自分を呪う言葉であった。夢から覚めて自分は天女の名を聞かなかったことを残念に思った。
  清見が関の幾夜かはこのような思いで開けた。4月も半ばをすぎて、花やこの世の楽しい季節を、私はまたあてのない旅にでて浮き身をやつしていた。ある時は静浦のほとりをぶらついて桜が島の歌が作られた跡を尋ねたり、伊豆の山に分け入って修善寺の薄倖将軍(源頼家)の墓を訪れ、さらに4月の初め湘南の田越の里の客となった。あゝ自分には一体どこに満足できる地があるのだろうか。
  (友人の)嘲風、芥舟が都内から訪ねてきた。私はハイネのほかに友人を得た。夕方近く満潮に乗って舟で漕ぎ出した。嘲風が立って櫓を漕ぎ私は舳(へさき)の方でハイネ(の詩)を読んだ。芥舟は舷をたたいてこれに合わせた。とはいうものの三人の感じているものがみな同じといえるだろうか。


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