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竹芝寺裏伝説その3

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平安時代東海道を京に上る
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国司との戦い


 そのまま時が過ぎれば良かったのですが運命とは、厳しいものです。
 国司のほうは、緊迫した情勢の中で宮様事件のことなど頭にありませんでしたが、都から派遣された検非違使はそう簡単に戻るわけにはいきません。武蔵の国衙でなすべきこともなく時を過ごしておりました。寒くなるにつれ、郷長の家を見張っていた兵たちは、夜明かしすることはなくなりましたが、相変わらず朝になるとやってきます。彼らはそこで一日することもなく、家の周りをうろつき、喉が渇くと家に入り込んで水を飲ませろとか何か食わせろとか言って女たちを困らせていました。その兵の一人が冬も終わる頃、郡司の妻が毎朝何か手に荷物を持ち、出かけるのに気付いたのです。暇に任せ一体どこに行くんだろうと、跡をつけてみると、半里ほど離れた百姓家に姿を消し、暫くするとあたりを伺うように出て来ます。三人の兵士たちは母親が立ち去った後、好奇心に駆られ、ボロ家の隙間から覗いてみると、食事の支度をしている百姓娘が二人も居るではありませんか。兵士達はにんまりとして、これはとんだ拾い物とばかり踏み込んだのです。『延喜、天暦の治』を経た今でも、そういうことに関しては何も変わりません。まして、当時は百姓の娘を犯すことなど畑の瓜を盗むようなもので、家に男が居なければやりたい放題です。そんなところに薪を取りに行っていた竹芝の若者が戻ってきたのです。兵士たちは武器はもちろん、布切れ一枚、身に着けていなかったので、たちまち殴り倒され蹴り出されたのですが、このとき若者は宮様にまたがっていた男を見て逆上し、髪の毛を持って引き剥がしざま、腰の小刀で首を引切ってしまったのです。
 少し冷静さが戻る頃、兵士達が大騒ぎで仲間を連れ戻って来てからが大変です。兵の一人に竹芝の若者の顔を見知っている者が居て、
「みんな、これがお尋ね者だぞ、捕まえろ」
と、たちまち縛り上げられ郷長の家に引かれて行きました。母親は真っ青になりましたが、どうすることも出来ません。郷長の家では早速、兵の頭が
「宮様を一体どうしたのだ。正直に白状しろ。」
と詮議を始めました。 しかし若者は
「宮様なんか知らん。俺達はただ逃げてきただけだ。」
と同じ答えを繰り返すだけです。結局、埒が明かず武蔵国府に送られることになりました。実は、竹芝の若者は故郷に着いた晩、宮様とひとつの約束をしていたのです。
「私は、もうここであなたと一生暮らすつもりです。だから、たとえ捕まっても人さらいをしたなどと言わないで。どうせ武蔵の国に私の顔を知っている者などいないんだから。衛士の逃亡くらい、大した罪にはならないわ。私は旅の途中で道連れになった身寄りのない娘よ。」
そのため、武蔵で彼女の素性を知っているのは、若者とその母、父親である郡司だけでした。
 武蔵国府には都から来た検非違使や国司などが待ち構え厳しい尋問が始まりましたが、竹芝の若者は何も答えません。実は国司は勿論、検非違使の方も、彼ら衛士が宮様を誘拐したという確たる証拠は何も持っていなかったのです。都ではただ、衛士らしき者たちが黒い荷物を担いで闇夜を走っていたという、あいまいな噂があっただけでした。竹芝の若者を罪に問うとしても職務を放棄して逃げ出したということくらいしかなかったのです。国司はここで追求の手を換え、
「おまえは、逃亡だけでなく、兵を殺すという大罪も犯したのだ。百姓女を手篭めにしたくらいで、人の命を奪ってただで済むと思っているのか。お前は国衙の兵を殺め反乱を企てたのだ。親父の郡司も同罪だ。」
と言いがかりを付け、若者の父親の郡司とその係累をことごとく捕縛するよう命じたのです。勿論、郡衙で兵に守られている郡司には手は出せませんが、母親の方はその父親の竹芝の郷長、そのほかの家族ともども捕まってしまったのです。その中には宮様と住み込みの百姓の娘も含まれていました。国司はこの人々を郡司との取引に使おうと考え、郡司に対し
「これ以上、事態を悪くしようとは思っていない。冷静に話し合い、お互い、折り合おうではないか。話し合いに応じれば、息子も含め家族は返す。応じなければ息子は都に送られ宮様誘拐と殺人の罪で裁かれる。」
という内容の使者を送ったのです。国司側にしても、郡司側の国司悪政糾弾の使いが都に向かっていることは承知しており、それが中央に達すれば、最終的にどういう裁定になるか見通せなかったのです。当時においても中央は必ずしも国司の言いなりではなく、調査の結果、国司側が処罰された例もありましたから。しかし、事前に郡司側を押さえてしまえば、話は別です。たとえ中央から調査のための使者が来たとしても国司側に不都合な証拠は出ようがないのです。国司は竹芝の若者が国衙の兵を殺したとことを口実に、それを反乱と認定し、都の決定を待たず郡司一派を合法的に「反乱鎮圧」して既成事実を作ろうと企らんだのです。
郡司側でも罠ではないかと危惧したのは当然です。しかし、彼らとて中央に直訴してもそれが、どういう結果になるかは国司側以上に分かりませんでした。国司と和解して多少でも、現状を改善できれば良いではないかという意見が大勢となり、郡司たちは兵を引き連れ武蔵国衙に現れ、まづ家族を解放するよう求めたのです。すると国司は息子を除く家族を返し、次のように言い、郡司たちに兵を外で待たせ、国衙に入るよう求めました。
「全員返すと、そのまま逃げるかも知れないだろう。息子は郡司たちが中に入れば返す。」
その言い分ももっともではあり、郡司たちは兵を外に待たせ、不安を押し殺して中に入ったのです。こうなれば国司の思う壺です。郡司たちは中に潜んだ兵たちにあっという間に捕縛されてしまいました。思うに、今思いましても、この国司様は身分に似合わぬ恥知らずの悪党で、上に立つ者の矜持ということには無縁の御仁であったようです。こうして竹芝の若者は縄を打たれ、都から派遣された検非違使に引き渡されて、再び、東海道を都に向かうことになったのです。国司の方は、反抗的な郡司らを一網打尽にした上に、都から来て何かと煙たかった検非違使に衛士の身柄という土産付きで、お引取り願い、それは上機嫌でありましたとか。
 ところが、それから二ヵ月近く経つ、春もたけなわの頃、都から思わぬ急使が、武蔵国衙にやってきたのです。その勅使は宮様のご養育に当たって居られた方で
「逃亡した火焚き屋の衛士が宮様は武蔵にいらっしゃると白状したのだ。竹芝の郷長の家でお暮らしになっている筈だと言っているが、それらしき方はおられるか?」
国司はあまりに意外な話に、まともに返事する気もせず
「遠路の、お使い誠にご苦労でありますが、そのような方は残念ながら居られませんな。郷長の家族なら、反乱の廉で捕らえた郡司らの面倒を見させるために、この近くのあばら家に住まわせてありますが、そのような高貴な方は居られません。」
国司は自らは郡司らに一切食事も与えず、家族らにその負担を押し付けていたのです。勅使は、
「やはり、あれは拷問の末の出任せであったか。それはそうだ。たとえ、さらったとしても、こんなところまで連れて来るものか。敦賀か尾張あたりで売り飛ばすに決まっているではないか。」
と、ぶつぶつ、つぶやきながら、ため息まじりに帰りの東海道の長旅を思いやりました。一目見たら帰るつもりで国衙から少し離れたところにある百姓家を覗きに行くと、外で粗末な身なりの二人の百姓娘が泥だらけの野菜を洗って調理の準備をしています。年嵩の方が下の方の娘に、小刀を使い、さばき方を教えている様子です。案内してきた役人が、口を滑らせ
「あの二人ですよ。あれを、うちの兵たちが頂いているところに、例の郡司の息子が戻ってきて、一人を殺してしまったのです。日焼けているのか煤けているのか、顔は真っ黒ですが、顔立ちはいい娘で、たぶん奴の想い人だったのでしょう。」
勅使が近寄って見ると、なるほどひどい身なりです。しかし、背の高い方の娘が下にかがんだ娘に掛けた声を聞くなり、真っ青になってしまいました。駆け寄り、顔を覗き込み、かすれ声で
「宮様、何ということでございます。このような、お姿で!」
この後の騒ぎは言うまでもありません。勅使は嫌がる宮様を無理やり役人に連れ出させ、都にお連れしようとしたのです。ところが出発の前夜、宮様は勅使をお呼びになり、驚くべきことを、おっしゃたのです。
「私は都には帰りません。元々、ここに来たのは、私が武蔵の国を見たいと竹芝の衛士に無理やり頼んだから、あの者がここに連れて来たのです。何で、あの者が罰されなければならないのでしょう。どうしても連れて帰るというなら、私はここで死にます。」
と、一尺ばかりの小刀を引き抜き、刃を首筋に、お当てになったのです。勅使はただ驚き説得を試みましたが、幼い頃より、言い出されたら聞かない、ご性格です。宮様から帝に託された一通のお手紙を懐に、大慌てで都に戻り、ありのままを帝に奏上するしかありませんでした。宮様の抜かれた、その小刀は相模の若者が持っていたものを彼の死後、残った二人が友情の証として宮様に贈った物でした。旅では小刀がなければ身を守ることも、獲物を調理することも、藪を切り開くことも出来ません。宮様は後々まで若き日の思い出に、その小刀を身に着けられていたそうです。

 その後、都でどのようなことが起こったかは分かりません。ただ、竹芝の若者は放免され、武蔵の国衙には巡察使がやってきました。そして国司は解任され郡司らは放免されました。宮様はどうなされたかというと、武蔵の国守ということになられたのです。後の時代、上総、下総、常陸などの大国は親王親任の国ということで、名目上、守は宮様がお勤めになるようになりました。その、はしりといえましょうか。前の上総介である菅原様もよくご存知の通りです。ただ違うのは、今の宮様は、都にいらっしゃるままですが、武蔵の姫宮様は生涯こちらにお住まいになったということです。武蔵の国はそれより三年全ての税が免ぜられ、都より高潔で有能な介が派遣され実質的な武蔵の守として、荒廃した田地の復興に当たりました。竹芝の若者は荏原郡の郡司を継ぎましたが一代に限り、宮様のご用に当てるということで、その郡の税を免ぜられました。宮様は海の見える竹芝の地にお住まいなさることを希望され、ここに郡司は精一杯立派な御所を建て、お仕え申したのです。残念ながら、竹芝の若者と宮様が正式な夫婦(めおと)であるということは最後まで認められませんでした。やはり、これ程の身分の違いは帝をもってしても、どうすることもおできにならなかったようです。しかし、後に宮がお産みになった御子には武蔵という姓を賜ったということで、帝の宮様に対する愛情のお深さが推し量られます。これは愚僧の想像ではありますが、帝は宮様が下衆の餌食なったことをお聞きになった時はまさに気も狂わんばかりではなかったかと察し奉ります。しかし、冷静さをお取り戻しになり、正しい処置を下されたのは、勅使に託された宮様から帝へのお手紙があったためではなかったかと、この記録をしたためた僧も書き残しております。このようなことは一千年も後であればいざ知らず、前代未聞、驚天動地のことでありました。ともあれ、その後、宮様は夫の郡司にもいろいろ助言され郡内は豊かに治まったということです。

 この長い話は衝撃的だった。あちらの方でも、深いため息をしているのが聞こえてくる。物語のような話が実際にあったんだ。このようにして昨夜は眠りに落ちた。
今日は、朝から雨。私は昨日の話を書いている。しかし、宮様の子孫はその後、どうなったのだろう。私は眠ってしまい、その続きを聞かなかった。そこに兄がやってきて教えてくれた。
「何だ、寝床で聞いていたのか。宮様のご子孫は『将門の乱』のとき、連座し、散り散りに逃げ延びたそうだ。今でも子孫はいるかもしれないが、どこにいるのかは分からないね。その時、御所をそのまま寺にしていたこの竹芝寺も荒らされ本堂を残して焼失したそうだ。御住持の話では、乱当時、当主の武蔵竹芝は有能な郡司で人望もあったというのだが、中央政府から見ると、地方にしっかり根を張った郡司などは危険で邪魔な存在だったのだとね。
『菅原様も、もし、在庁官人がいつも百姓側について楯をついたら、おやり難かったでしょう。』なんて言っていたよ。つまり、乱に便乗して消されたんだよ。特に、この竹芝寺には真っ先にやって来て、元々あった宮様の御記録を持ち去ったそうだ。後世に、あのような出来事を知られたくなかったようだよ。」
そうか、ならば私が、しっかり書き記して千年後までも伝えよう。

 

図は平治物語絵巻より



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