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濃尾平野の地質構造、河川の状況と平安・鎌倉街道

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  濃尾平野は日本有数の平野で生産性が高く歴史的にも重要な地域である。一方で、ここを流れる多くの河川に翻弄される苦難の歴史があった。この原因はこの地域の地質構造にある。歴史を語る上で河川状況は交通路に大きく影響するので、この問題にも触れないわけにはゆかない。
※タイトル画像:長良大橋から長良川下流を望む。広大な河川敷は墨俣川と呼ばれた戦国時代以前にこの地方最大の大河であったことを思わせる。


(1)尾張の地形の成り立ち


  新生代、鮮新世に濃尾平野の位置には 東海湖と呼ばれる広大な湖があったという(650万年前~120万年前)。 この湖の東側はわづかずつ隆起していたが、 長い時間をかけ湖には周囲の山地から土砂が流れ込み平らに埋められていった。 しかし東岸の隆起は今も続き、おおよそ名古屋・岐阜を結ぶJR東海道線を軸として東は上がり、西は沈むという運動が続いている。これは濃尾傾動地塊運動と呼ばれている。其の様子を断面図で示す。養老山脈側では現在も0.数㎜~1㎜/年の沈降が続いているという。結果的に平野は南西に傾いている。濃尾平野は北、東、西側を山地に囲まれ、そこに降った雨はわづかに傾いた板に水を流したような状態になり、大勢としては南西方向に向かって流れ下るものの、大雨の時期には流路は一挙に不安定となり、西側はいわゆる乱流地帯となる。
引用:濃尾平野(1)桑原 徹、https://www.gsj.jp>data>chishitsunews
濃尾平野域の地質断面


(2)古代・中世東海道と河川の関係


  古代東海道・駅路は現在の名古屋市内、新溝駅から西に直線的に馬津駅に向かい近世東海道と同様に伊勢国経由で京都に向かっていた。ところが、おそらく長良川、揖斐川河口に近い乱流地帯を経由していたため道路が安定せず、ここを避けるべく現在のあま市、萱津から北上し墨俣を経由して東山道と合流するコースに変わったようである。いつから、このコースに変更されたかは定かではないが平安時代中期の更級日記では墨俣経由となっている。このルートは戦国時代迄続く。
   では具体的にどのようなコースをたどったのであろうか。 木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)とは濃尾地方を流れる大河であるが、 これらの河川の歴史的な名称および流路について正確なことはわかっていない。 この問題について『中世の東海道をゆく』の中で榎原雅治氏は、 この地域の古文書、通過した旅人の紀行文を整理、検討し、初めて一つの明快な結論を導いた。 つまり、戦国時代以前に木曽川はなかったのである。木曽川出現に関する根拠文献は発見されていないが、概ね通説を踏襲しても大きな齟齬はないことが示されている。要旨を前掲書に沿って以下に総括する。
※『中世の東海道をゆく』榎原雅治、p.38、中公新書1944(2008)


①現代河川名を歴史的河川名に比定


  現在、濃尾平野を流れる大きな河川として西から揖斐川、長良川、木曽川がある。これらの大河川名は江戸以前の文書にはほとんど出現しない。流域による呼称の違いはもちろんあるが、少なくとも濃尾平野本体部には見られない。前掲書で述べられている河川の状況を以下の表にまとめた。下図は前掲書より。


中世紀行文に現れる美濃・尾張の河川
年代 文献名・作者 河川名と状況
1185年(文治元年) 『吾妻鏡』 足近、墨俣渡の整備
1238年(嘉禎4年) 『吾妻鏡』 洲俣、足近の浮橋破損
1279年(仁治3年) 『東関紀行』 杭瀬川…京を出て3日目に渡る
1279年(弘安2年) 『十六夜日記』、阿仏尼 洲俣川…船橋を渡った
1280年(弘安3年) 春の深山路(みやまぢ)』、飛鳥井雅有 ・笠縫川(杭瀬川)…一枚橋
・美濃・尾張の間の川(境川)
・名称不明の川(足近川?)
1418年(応永25年) 『なぐさめ草』、正徹 ・墨俣川
・あしか川
・および川
1433年(永享4年) 『覧富士記』、尭孝 ・くゐせ川
・墨俣川…船橋あり
・をよび川…ゆたかに澄める
1530年(享禄3年) 同時代文献なし 揖斐川が杭瀬川本流に
1586年(天正14年) 同時代文献なし 大洪水により木曽川が現在の流路となる



古典に表れる河川名は西から杭瀬川(笠縫川)、墨俣川(洲俣川)、足近(あじか)川、及(および)川である。地域的観点から現在の河川名と対応させると
杭瀬川……揖斐川上流
墨俣川……長良川
足近川、及川……木曽川
杭瀬川は京を出て3日目に渡る。ここには現在も杭瀬川が流れているので疑いの余地はない。 この川は赤坂の宿と笠縫宿に挟まれた位置にあり、『春の深山路』では笠縫川と呼んでいる。川の規模としては板を一枚渡した橋がかかっていたという程度からさして大きな川ではないことがうかがえる。この川は揖斐川の上流である。では現在長良川の西2.5㎞を流れる揖斐川はあったのだろうか。江戸時代には存在したが室町・鎌倉時代以前の文献にはないので、少なくとも現在のような大河ではなかったと考えられる。
墨俣川はほとんどの紀行文に現れ、これが現在の長良川であることは疑いない。 『覧富士記』には『すのまたは興おほかる処のさまなりけり。川のおもていとひろく、 海づらなどの心ちし侍り。舟はしはるかに続きて行人往馬ひまもなし』と描写される程の大河であった。
木曽川は戦国以前には現れず、その代わり、足近川、および川が見られる。 両者の関係については次の項で述べる。


②木曽川が出現し現在の流路になった時期は?


  木曽川という河川名は戦国時代以前には見られなかったが、天正14年(1586年)の大洪水の結果、現在の河道の上に現れたといわれている。それ以前には、この流れは東部山地から犬山、各務原台地を経て、前渡の辺りで境川の流路に流れ込み長良川に合流していた。つまり中世までは長良川の水量と木曽川の水量が墨俣で墨俣川という一つの水路に流れ込んでいた。この流れが合流する墨俣では『川のおもていとひろく、海づらなどの心ちし侍り』という景観が生まれた。戦国時代以前、この境川が美濃・尾張を分ける文字通りの国境の川であった。
では、現在の木曽川の位置には何もなかったのだろうか。
紀行文には、足近川、及(および)川があったことが知られる。 この川の位置は現在この地に残る、「足近(あじか)」、「及(および)」という地名から推論できる。この二川のうち足近川は文治元年という鎌倉時代初期から現れるが「および川」は室町時代の応永25年から出現する。すなわち足近川は古くから知られていたが、「および川」は鎌倉時代までは存在しても記録にも残らない程の小河川であったと思われる。これらの川の鎌倉街道推定地での地形断面図に模式的に示すと次の図のようになる。
鎌倉街道の高低差模式断面図
高低差を極端に誇張しているが、実際には非常に平坦な地域である。しかし、この図で強調したいのは、この平野は濃尾傾動地塊運動により東部平野は東から西に若干傾き、その傾きは年々わずかずつつ増しているため常に高低差があるということである。水は必ず低きに流れる。そのため平野に流入した水は最も低い流路である長良川(墨俣川)に流れ込もうとする。にもかかわらず何らかの力が加わったためであろうか、天正年間?に古木曽川の流れが前渡付近で流路を南に変え標高の高い現・木曽川の流路に変わったらしい。下に明治濃尾地震の際に起きた地盤の隆起・沈降分布図を示している。


榎原雅治氏は前渡周辺で断層が動き、地盤が隆起した結果、流れが遮られて流路が変わったと推定している。この時の地震ではピンクで示した地域で最高0.75mの隆起があった。根尾断層で明治に起こったことなら、過去にも同じことが起こった可能性があると考えられる。元々濃尾平野西部は沈降傾向にあり、わずかの地殻変動や洪水が加わわれば容易に流路は変わりうる状況であった。
明治濃尾地震による隆起と沈降
現在の木曽川流路は戦国時代以後に出来たことは間違いないが、それ以前になんの川もなかったのだろうか。紀行文には付近に足近川、および川があったことが知られている。足近川は鎌倉時代から言及されているが、および川は鎌倉時代以降現れ、現在は、および川は存在しない。おそらく、ある異変を境に及(および)川の河道に、古木曽川の水が大量に流れ込み一挙に河道が洗堀され、大きな川となったのではないだろうか。


③歴史的事件、承久の乱が示唆する古木曽川の河道


  前述の事実から、鎌倉時代の大事件、承久の乱(承久3年、1221年)の時、朝廷側が西上する幕府軍を迎え撃つための防衛線が、古木曽川(流路変更以前の木曽川)の対岸であったことに納得が行く。下図は承久の乱時の合戦地を図示したものである(大垣市墨俣歴史資料館展示より引用、一部加筆)。この時代に木曽川はなく、境川が美濃、尾張の国を分ける大河であった。水源を失った現在の境川は周囲の水を集めるだけの中小河川に過ぎない。
古木曽川流域における承久の乱合戦地
 


④平安時代の濃尾平野における河川状況と東海道


  更級日記の書かれた平安時代中期には現在の木曽川はなく、長良川(墨俣川)が唯一の大河であった。鎌倉時代の揖斐川(杭瀬川)は赤坂の辺りでは、『春の深山路』にあるように一枚橋であったというから、さほど大きな川ではなく、渡るのに困る川ではなかったと想像される。
以上のことから平安・鎌倉時代には渡河の苦労が最も少ないという観点から、尾張、萱津から西に向かう古代駅路ではなく、遠回りとなるが墨俣で川を渡り、東山道に合流するコースが東海道として選ばれたと結論付けられる。

 

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