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名古屋市内の平安・鎌倉街道

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大都市の古道は多くが消滅しているが名古屋市はどうであろうか。


(1)熱田から萱津迄は古代駅路を踏襲

古代駅路がいつ頃建設されたかは明らかでない。しかし平安時代前期までに少なからぬ改変を経てついに放棄されるに至った。もちろん条件が良ければ部分的に後代に利用される区間もある。尾張国では多くは水害のため失われた。しかし、一部、名古屋市内に明治時代まで残存した区間があった。以下の駅路図で当初の駅路は名古屋市内の新溝駅からまっすぐ西に向かい、江戸時代東海道と同様、鈴鹿峠経由で都に向かったことがわかる。
下記駅路の引用、武部健一:『古代の道』p.48、吉川弘文館

尾張国周辺の古代駅路推定図
名古屋市内の平安・鎌倉街道については、古代駅路を踏襲しているということが、木下良氏により解明されている。名古屋市内における古道の痕跡は過去の水害や戦災、戦後の都市計画・再開発により、ほとんど消滅した。道路そのものは失われたが、下に示す、明治22年測図の5万分の1地形図に直線道路を特徴とする古代駅路とみられる道影が見出された。氏はその道路の地籍図を調査し道路に沿って細長い土地が連続して存在することを発見し、古代駅路であることを確認した。地図上で赤の実線で示したものが駅路である。この駅路は露橋で幾何学的に折れ曲がっている。
明治22年地形図に残る名古屋市内の駅路
旅の古代史(第6回春日井シンポジウム):森浩一、門脇貞二編、p.42、大巧社、(1999)
実は江戸時代にも鎌倉街道がおおよそ、このルートを通っていることが知られていた。街道は鳴海から北上し、井戸田または熱田経由で古渡に出る。ここから西に直線的に露橋に至り北西に北上し東宿に至る。そこから庄内川河畔に出て渡船で萱津に渡る。
※『此村(稲葉地村)より巽(南東)へ斜めに古渡村まで昔の鎌倉街道の跡、畔のごとくに残れり。土民(地元民)は小栗街道といふなり。上の中村の東に旧(古い)の一里塚あり。その辺の畔名(あざな)を一里山と呼ぶ。』(『尾張地名考』津田正生 昭和45年復刻版 p.44)
露橋から古渡間の道は元々川沿いの道で川は埋め立てられ現在、山王通りとなっている。古渡は現在東本願寺別院のある辺りで、戦国時代には織田信長の父、信秀によって築かれた古渡城(天文3年1534年)があった。熱田社は古渡からほぼ直角に南下した位置にある。つまり鎌倉時代には鳴海から古渡に出るには戸井田ー御器所経由か熱田経由の2本の道があったようだ。御器所ルートは江戸時代に編纂された「尾張徇行記」が根拠と思われるが、どちらの道が本道であったのであろうか。下表によれば、鎌倉時代紀行文を書いた旅人はすべて熱田宮を経由していることがわかる。

頼朝上洛時には頼朝母の実家であることで当然立ち寄っているが、鎌倉時代の紀行文、飛鳥井雅有の場合、『都の別れ』、『春の深山路』のいずれも熱田社を経由している。さらに阿仏尼の『十六夜日記』でも『どうしても避けられない道』と言っている。従って、鳴海から萱津に向かう旅人は多くの場合熱田宮を通り参拝あるいは宿泊しているので、こちらが本道であったと考えられる。つまり鎌倉時代には御器所ルートはメインルートではなかったのである。その二百年以上前の平安時代中期には更級日記の家族も、もちろんこの熱田社で宿泊したと考えられる。


年代 出典、作者 記事内容
1185年(文治元年) 吾妻鏡 源頼朝上洛、熱田に宿泊
1223年(貞応2年) 海道記 鈴鹿経由で萱津に着く。熱田宮の門前を過ぎる
1242年(仁治元年) 東関紀行 熱田宮、神垣辺りに宿泊
1275年(建治元年) みやこぢの別れ 熱田で潮待ち、食事後、篳篥の演奏を奉納
1279年(弘安2年) 十六夜日記 避けることができない道なので熱田宮に参る。歌五首作る。
1280年(弘安3年) 春の深山路 熱田宮門前を通ったが、精進していないので参らず。潮待ちのため漁師の小屋で酒盛り


<古代道路欠損に見られる過去の水害の傷跡>
上記地形図で直線部分は途中で途切れている。鎌倉街道はそこから直線をはずれ、日吉小学校(名古屋市中村区城主町1丁目1)あたりから日赤病院(名古屋第一赤十字病院)の方に向けて迂回して、東宿明神社に向かう。この部分はおそらく庄内川の氾濫による湿地化で道路が失われた部分ではないだろうか。つまり鎌倉時代に既に地盤の弱い部分で古代直線道路は欠損していたと考えられる。ともあれ庄内川の自然堤防上の東宿、明神社に達する。この東宿は『東関紀行』に「萱津の東宿の前を過ぐれば、そこらの人あつまりて、里もひヾく計(ばか)りにのゝしりあへり。今日は市の日になんあたりたるとぞいふなる」とある程、賑わっていた。この河をはさんで対岸が萱津宿である。


(2)名古屋市内に残る鎌倉街道の遺構


現在の名古屋市は戦後に区画整理されたため古道はほとんどなく、かつて街道の沿道にあった寺社を訪ねて過去のよすがとするしかない。


①古渡(ふるわたり)


熱田神宮から古くは半島であった台地上を北上して来ると山王通り(古くは川であったという)に突き当たる。古渡は正確な時代はわからないが海が湾入していた頃の船着き場であったという。このT字路に近いところに古渡稲荷神社(山王社)犬見堂がある(名古屋市中区正木1-15-13)現在は狭い敷地に祀られているが、尾張名所図絵によれば広大な境内を持つお社であった。図中薄黄色が古代駅路を踏襲する鎌倉街道(小栗街道)で、水色の大通りが現在の伏見通りで南下すると、熱田神宮に到る。
尾張名所図会に見る江戸時代の古渡稲荷神社
山王社は江戸時代には古渡稲荷の境内の摂社であったが現在は合祀されている。犬見堂も同様である。
古渡稲荷
犬見堂


鎌倉街道跡(古渡稲荷案内板)
鎌倉街道は京都と鎌倉を結ぶもので、別名「小栗街道」ともいわれ、「十六夜日記」や「東関紀行」などの紀行文で知られている。
 その道筋は「尾張徇行記」によれば、萱津宿から庄内川を渡り、東宿から上中、米野露橋、古渡地内に出、稲荷祠と犬見堂の間を経てその先、大喜、高田へは舟で渡り、井戸田、古鳴海へ抜けるという。今では名古屋市の都市化にともなって、局部的に残っているに過ぎない。
名古屋市教育委員会


<熱田社は潮待ちの場所>
熱田から鳴海に向かうには鳴海潟という潟を渡る必要があった。現代では信じられないことだが、官道である鎌倉街道でも干潮時にしか通れなかった。干潮の間に着かなければ、次の干潮まで待つしかなかった。この問題については榎原雅治氏が『中世の東海道をゆく』で詳しく解説されているのでこれ以上は立ち入らない。
榎原雅治『中世の東海道をゆく』 p.5、中公新書(1944)、2008

『更級日記』でも『尾張國、鳴海浦を過ぐるに、夕汐たゞ満ちに満ちて、今宵宿らむも、中間に汐満ち來なば、こゝをも過ぎじと、あるかぎり走りまどひ過ぎぬ。 』というように下手すると半日も待たなければならないので、大慌てで駆け抜けたのである。 


②露橋


(a)神明社(名古屋市中川区山王3-12-4) この神社は鎌倉街道(小栗街道)の沿道に慶長3年に勧請されたといわれている。
露橋神明社
(b)露橋屈曲点の現在
古代駅路はこの集落で東宿と古渡に方向を変えて向かう。この場所は明治22年の地形図では水田に囲まれた小さな集落であった。現在は、名古屋市中川区広川一丁目の市街地の中である。この地点の目印として以前は鈴木バイオリンという会社があったが、現在は移転し、マンション(Cultia Sasashima Live South)になっている。目印としては裏のクラフト中川店の方が適当である。この一角には50mほど駅路の名残が見られる。
(c)橋の名に残る鎌倉街道(小栗街道)、小栗橋
露橋(現在広川一丁目)の西にある中川運河は明治時代までなかったので、小栗橋という橋名は運河開削後に出来たものであるが、昔ここを鎌倉街道が通っていたことを後世に残すため名づけられたものだと思う。(余談:現代では容赦なく過去の地名を消し去り歯の浮くような軽薄な名前が付けられることが多いが、ここでは先人の思いが感じられる)
小栗橋
(d)町割り境界に残る駅路の痕跡
下に示す名古屋市中川区黄金陸橋付近の百船町、九重町の奇妙な境界に注目したい。破線で示され町境界はなぜ大須通りに直角でないのだろうか。これは露橋から延びる古代駅路の延長線とぴったり一致する。往時、ここは鎌倉街道の沿道であったのである。この事実は名古屋歴史懇話会の皆さんの現地調査で明らかになった。畳屋さんの店先の敷地境界が変な角度で切れているが、これは駅路の延長線がこの辺りにあるという目で探さなければ、とても見つけられるものではない。
町境界線は中川区百船町29-9(寺善畳店)と中川区九重町2-1の敷地線を結んだものである。
<畳屋さん前の歩道に注目
名古屋西部の鎌倉街道:舟橋武志、p.46 ブックショップ・マイタウン(2013)
町境界に残る駅路の痕跡


畳店前の駅路痕跡
③東宿


東宿明神社(名古屋市中村区東宿町1-57)
創建は不明であるが、おそらくこの地で定期的に立つようになった時期、鎌倉時代以降と思われる。
東宿明神社
萱津の東宿跡(案内板)
この地は萱津の東宿といわれ、庄内川をはさみ萱津宿の出郷として、京より美濃を経て鎌倉に赴く交通の要衝であった。
 また盛んに市の立ったところで、鎌倉時代の紀行文『東関紀行』に、「萱津の東宿の前をすぐれば、そこらの人あつまりて、里も響くばかりにののしりあへり。今日は、市の日になむとぞいふなる。」と当時の賑わいを記している。
名古屋市教育委員会


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