記事コード:
doc_39

鎌倉街道、尾張国黒田宿考

関連カテゴリ:
更級資料室
携帯やスマートフォンで見る場合、QRコードを読み込んでください。

墨俣ー萱津間の交通路に黒田は必ず経由地として取り上げられる。しかし、本サイトでは別項で述べるように基本史料『吾妻鏡』の誤りによって、生じた経由地であると考えている。吾妻鏡以外に黒田を経由地とした確たる文献はない。わづかに、『尾張地名考』に関連記述がある。その妥当性について、検討する。
尾張地名考は江戸時代の尾張藩の学者、津田正生による地誌であり、内容は信頼に足る文献として知られている。ここでは黒田村の地名、寺社由来などが述べられている。その中で剱光寺由来について頼朝上洛時に剱を拝領しその縁で寺の名を剱光寺と変えたという話が引用されている。それは信頼に足る情報であろうか。これは著者の考えではなく、「相伝」という人物によるものらしい。しかし書き残された文書もなく、他に引用もないので、信憑性は薄いと考えざるを得ない。吾妻鏡には頼朝上洛時に剱光寺に立ち寄ったという記事はもちろんない。この記事の根拠が薄ければ、鎌倉時代の墨俣、萱津間の経路に黒田が含まれているという論は成立しない。
但し、黒田が江戸時代以前には、有力な宿場であったことは間違いない。ただ、それは美濃に向かう街道筋としてである。江戸時代に入り、岐阜街道が整備されると旧道は廃れて市も宿場も一宮に引っ越してしまった。鎌倉時代にあっては玉ノ井から墨俣に向かう旅人にとって歩く距離は短い程よく、遠回りになる黒田にあえて立ち寄る必要はなかったと考えられる。


尾張地名考、黒田を以下引用


尾張国葉栗郡 黒田(くろだ)村
地名土色のくろきに基づくなるべし。尤も正字也。此村往昔は宿駅也。いま北宿南宿と呼ぶところを旧地とす。
【里老曰】むかしは黒田に市あり。寛永の頃か、宿駅も市も共に一の宮へ引きたり。夫より此村おとろへたり。また此処に黒田川とて川あり。今はなしといへり。
名寄(なよせ)
  目にたてぬ人なかりけり ぬば玉のくろ田の川にふれるしら雪
歌枕名寄等に黒田川美濃といへるものは甚だしく誤れり
【吉田正直曰】慶長五年八月二十二日軍記に云く。池田三左衛門輝政云々以上七騎は川上河田の渡り、或いは黒田の渡りを越えて松原島にて中納言の勢と合戦す。中略 福島左衛門正則云々、以上九騎は川下越の渡を越える云々と見えたり
夫木
  遠近も今はた見へず烏羽玉(うばたま)の黒田のさとの夕ぐれのそら
慰草(なぐさめぐさ)に
詞書き 
わさ田にをりたつ田子の声々に諷ひよるは蛙の耳かしましきなどめづらしき心地ぞせし。庭の木の下に卯の花のほのかに咲きたるを
  夜もすがらひかりはみせよ烏羽玉の黒田の里に咲ける卯の花    正徹
  墨染のくろだの早苗とる賎やゆふべをかけて袖ぬらすらむ
慰草は松月庵正徹作。応永二十五年足利義持将275軍の道の記也
【(著者)正生考】葉栗郡黒田神社は今は内割田村に属したり。則ち割田村條下にしるす剱光寺の地蔵尊は当国六地蔵第一の札所也。
【相伝云】右大将頼朝卿上洛の時此寺に至りて地蔵の像を見て一剱をおさめ給ふ。此故に剱光をもて名とす。其の後盗賊ありて尊像をぬすむといふ。其の像はいま一宮村地蔵寺の本尊是也とぞ。
【古城跡記】黒田城東西六十五県南北六十三間東は一重堀西は三重堀南北の二方」は二重堀也。始め和田河内守取立、同加賀守之に居り、足利の末か、織田伊勢守信安岩倉城に在りて山内盛豊を以て黒田の城代とせり。また長久手陣のころ澤井雄重も居城と見ゆ。

以上引用終わり(『尾張地名考』津田正生、p.275,昭和45年復刻版、愛知県海部郡教育会)


この記事に対するお客様の声