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国司の収入はどのくらいだったか?

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国司の収入の計算方法


 国司の収入は一定額ではなかった。延喜年間以後国司請負制ともいうべき収税制度に変わり、赴任国の総収税額は次のように配分された。平田:『消された政治家菅原道真』p.218 ①国庫への納付 ②国衙の運営費(役所費) ③土木,灌漑など地方事業費 ④国司(守、介,掾、目 、史生)の取り分  ①の国庫納付額は国により定められた額がある。②③は効率的に運営したり、気候不順他、天災がなければ少なくてすむ。総税額から①+②+③を差引いた額が国司の取り分である。従って赴任国が豊かで、気候が良く、何も特別な事件がなければ国司の収入は増える。しかし、喜ぶのは早い。上総の国は豊かな国(大国)であるが、そのため守には名目上、親王が任ぜられることになっており、菅原孝標は名目上は上総の介(次官)であった。つまり、④を実際には赴任せず京都で遊んでいる親王様にも分けなければならなかった。でも、孝標が赴任中は平穏に済んだようなので、まずまずの収入になっただろう。
 もう少し具体的に見てみる。『官職要解』(講談社学術文庫)によると、まず総税収である田租を2分し、半分を正税として国庫に納める(必ずしも米の実物ではなく、国ごとに定められた絹、布、紙など地方の特産品に換算して収める)。残りの半分を公廨稲(くがいとう)といい、そこから役所費、事業費などの諸費用を差し引いた残りを国司らで定められた比率で分配する。その比率は上総など大国では 守32.5%、介25%、掾(じょう)18.8(9.4)%、目(さかん)12.5(6.3)%、史生(ししょう)6.3(1.3)%。但し、掾、目、史生は定員が各2、2、5人なので()内の%が1人当りの分け前となる。
 問題は役所費、事業費がどのくらい支出されていたかであるが、ここに平安時代の地方財政の致命的欠陥がある。役所費、事業費は国司をはじめとする役人の自由裁量で決めることができ、本来必要なインフラ整備(治水、道路、橋、渡船etc)、新田開発など農業振興や貧民救済に、なるべく費用を支出せず、国衙に取り置いておけば、合法的に県知事と役人で分け取りする分を増やすことができた。要するに、この時代には知事や役人の行動を監視する議会がないから、彼らの懐を肥やす機会はいくらでもあった。実際、受領を一回やったら一財産できるといわれた程である。現代でも似たようなものだが、受領や現地の在庁官人に高潔な良識はほとんど期待はできなかっただろう。かわいそうなのは地方の農民である。このような状況が続いたおかげで、源氏物語が書かれた時代の京都では諸国の財物が流入し、王朝文化が咲き誇る一方で、地方では道路、橋などのインフラは荒廃し、盗賊が横行、農民はやる気をなくし社会は停滞していった。この状況は更級日記のあちこちに記録されている。
 ところがである、受領はいことばかりかというと、場合によってはそうでもない。12年後、孝標は常陸の介に任ぜられる(1032)が、このときは帰ってくるなり「もう受領はこりごりだ」とばかり引退してしまった。これを年齢だけのためと見てはならない。この時期、上総、下総、安房など(現千葉県)は平忠常の乱(1028~1031)で壊滅的荒廃に帰し、隣接する常陸の国も疲弊していた。年老いて赴任し苦労した割にはいくらの収入にもならなかったことの同時代証言と見られるからである。請負制の厳しさは国庫に収める税が足りなければ、最悪の場合、不足額を国司が負担しなければならないところにあった。おそらく孝標はこのときは、いくら事業費を節約しようにも総税収が極端に落ち込んでいるのではどうにもならず、自分の取り分などいくらも取れなかったのではないかと思われる。世渡り下手の孝標は、有力者に取り入るなどして、上がりのいい国に回してもらえなかったのである。


図は粉河寺縁起絵巻、長者の蔵。平安時代は貨幣がほとんど流通していないので財貨は現物のお宝で、蔵に蓄えられていた。高価な紙、調度品、布などである。米は鼠が入らないようにした米蔵に蓄えられる。


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