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旅の一行の人数はどのくらい

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菅原家一行の旅の人数の推定


 この問題は難しい。旅の一行の内訳は①菅原家の家族②菅原家の使用人(護衛の武士を含む)③馬、車などを使って運送を請け負う地元民④臨時雇いの人足からなり最初から最後まで一定の人数ではないからである。①②はほぼ定数であるが、③④は旅行区間や時期により変動する。例えば平坦地で車が使えるところは人足は少なくてすむが、峠越えになると人の背や馬で運ばざるを得ないので人足や馬借が増える。旅の終わりに近づけば食料や報酬として支払う物資が減るので運搬担当者の数も減る。荷物の量を見積もらないと人馬の数も分からないわけだが、これもかなり変動する。当時は貨幣経済が発達していないから地方では高価な軽貨(絹、麻、紙)や金銀などの貴金属、地方の特産品が貨幣代わりになる。食料はある程度大きな集落があるところでは、そのような物資と交換して手に入れることができただろうが、人里のない区間も少なくないので、人足の食い扶持まで考えるとかなりの量を携行する必要があった。(信貴山縁起絵巻には旅の尼君が米俵を2俵、従者に担がせて旅している場面がある)。野営、生活物資一式を持参し、武装しているという意味で、この一行は軍隊の小部隊のようなものである。当時はこのような部隊でなければ「女子供やお宝」を伴う旅は不可能である程、地方の治安は無きに等しい状態であった。

荷物の量が分からないので想像するしかないが、少なくとも50人を下ることはなかっただろう。仮にあらあら見積もると次のようになるだろうか。


人数の推算


 ①家族6人(男3人女3人)②使用人25人(男20人うち武士15人、女5人)家族と使用人だけでも31人になる。しかしこれは実際にはありえない最低の人数である。当時の受領は任国を経営するための実務担当者を京都で雇い入れ彼らを引き連れて赴任するのが普通であった。その人数は数十人にも及んだという(大津:道長と宮廷社会、p180、講談社)。また武士の数15人は多いようにも思えるが、当時馬や車で運送を担う現地雇いの業者(当時はまだ職能分化していなかったと思われる)にはいかがわしい人間が多く、人里離れた山道で追剥に豹変することがあった。これを威嚇、監督するためには、15人でも足りないくらいである。武士は任国では国衙の警備のほか、徴税などの実務にも携わっていたはずである。平地で車を使う場合、手車2台分8人、荷車(馬車)5台10人、駄馬5頭、馬方5人くらい使うとすれば③は23人、合計54人となるが、あくまでこれは最低人数であり、峠越えなど難所の運搬には現地の人を臨時荷担ぎ人足として雇用すると70~90人、一時的には100人近くにも及んだのではないだろうか。国司の任国への旅の様子が『因幡堂縁起絵巻』に見られる。


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