『房総万葉地理の研究』に見る「まつさと」考
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『房総万葉地理の研究』に見る「まつさと」考

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「まつさと」を「松戸」とするのは専門家なら躊躇する


 和洋女子大学教授であった今井福治郎氏による『房総万葉地理の研究』(春秋社)は房総地域の万葉集の舞台となった地名を多くの文献の読み込みと丹念な実地踏査で比定を試みた労作である。これには万葉集のみならず関連文献に関する記述も多い。その中で「まつさと」についても論考しているが、首をひねりながらも結論は「まつさと」=松戸としている。氏の勤務した和洋女子大学は下総国府のある市川市国府台にあり、市川、松戸を熟知する研究者の論として無視し難たいが、結論を言えば間違いだろう。執筆当時、東京低地を横断する北小岩と隅田を結ぶ古代直線道路の存在が明らかになっていたなら、氏も「まつさと」=市川国府台下説に賛同されたのではないかと思う。以下参考のためその部分を転載する。地元を良く知っておられるだけに、却って困惑されている様子が見て取れる。「まつさと」を無理に「松戸」にこじつけようとしているので訳のわからない論理になっている。


 

房総万葉地理の研究p.302(今井福治郎)


『ふとゐ川の上流のまつさとに宿ったことが記憶違いでないとしたならば、マツサトは今の松戸であろうとする従来の説に従うべきである。だが、作者の父が寛仁元年(1017)上総の介に任ぜられ、(父は45歳作者は10歳)同4年解任、9月3日に国府を出発し、くろとのはま(この地の所在については、君津郡黒戸説と、稲毛の東南方黒砂説とがあるが、前者として上総の国府との関係からいって不自然であるし、日記に、一日でマツサトに到着したともあるので、今暫く黒砂説による)を経由して松戸に向かったことが記されている。そのころはすでに市川市周辺の海水は後退し、太日川には渡船もあったと思われるのにどうして松戸に向かったのであろう。その一理由として、孝標が下総の国府に寄ったことが考えられる。もし寄ったものとすると、クロトからは近道の、今の千葉街道を経たものと思われるが、或は、浜道を通ったかもしれない。この道は、柏井台地と大野台地とを結ぶ道で、かつての海岸線が、この付近まで浸入していたのでこの称がある。しかし、その道を経て国府に行くには遠道となり、松戸に行くには近道となる。いずれにしても、松戸の西方の隅田川を渡ったのは、今の浅草寺付近と思われるので、その点から考えると、松戸を経由しなければならないことになる。』


 


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