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7.太井川の岸辺で涙の別れ

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平安時代東海道を京に上る
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10月8日(晴)松里を起ち太井川を渡る


早朝、男たちは車を船に乗せしっかり固定して向こう岸に渡した。太井川(現在の江戸川)は名の通り大きな川でこの前の大雨の影響か、水かさが増し大きくうねりながら流れている。船が戻って来て、船に乗り込むといよいよ最後の別れが待っていた。上総から送ってきてくれた人達はここで引き返さなければならない。皆、岸辺に立ち女達は涙を浮かべじっと船に揺られる私たちを見ていたが、いよいよ船を下り土手に向かって歩き始めると手を振り泣きながら別れの言葉を送ってきた。こちらも振り返っては立ち止まり、もう二度と会うことのない人々に涙ながらに別れを告げた。子供心にも大人達の別れの辛さがひしひしと伝わってきた。人々の中に乳母のモモの姿はなかった。昨日、産後の穢れとかで
「私は遠慮しなくてはならないの、ごめんなさいね。またすぐ会えますから」
と言っていた。土手に上って西を見ると、いい秋晴れで、ずーっと向こうにこれから向かう武蔵の丘陵が青く見えている。土手を下りて少しばかり川に沿って北に歩くと小さな集落(現在の東京都江戸川区北小岩)があった。ここも松里と同じく古い村らしい。既に荷物を積んだ20頭近くの馬のいななきや荷車の音でごったがえしていた。ここから真っ直ぐ西に向かう大道(おおみち官道、現在の遺跡通り)が伸びている。この村の空き地で行列を整え、私達が車に乗り込むと馬に跨った侍達を先頭に進み始める。荷駄の馬は全てこの村のもので私達を次の隅田の渡しまで送って、向こうで又こちらに向かう荷物を運んで帰るという。馬を引く馬子もこれまでとは全員顔ぶれが違う。道の両側は一面の葦原で大人の背丈よりも高く生い茂りその他は何も見えない。
「いくら草深い田舎と言ってもここはすごい所だねえ」
「これでも秋枯れているからまだいいってよ。夏は道の真ん中まで草が生えて通りにくい上に、蒸し暑くて蚊がわんわん居て地獄だって聞いたわよ」。
「ぬかるみばかりで泥にはまったと言っては、しょっちゅう車から下ろされていやになっちゃうね」
「まあ、そう言わないで。この前大雨が降ったから仕方ないのよ。梅雨時や秋の大雨の季節には道が水を被ってどこがどこだか分からなくなって、溺れて死んだ人もたくさんいるそうよ」。
「この大道は官道だから下総の国衙でちゃんと手入れしているんでしょう?」
「確かに建前はそうだけど、それは奈良に都があった頃の大昔の話。今は国衙の役人はそんなことやらないわよ。さっきの村で駄賃の交渉を側で聞いていたんだけれど、大道の草を刈ったり穴を埋めたりする仕事はあの馬方達がやっているって。だから駄賃が高いのはそういう費用も入っているんだって」
こんな会話を姉、継母と交わしているうちに車は小さな川というか沼の岸に着いた(現在の中川の起源となる流れ)。この沼というか川は川原はかなり広いが真ん中の流れは細く、狭そうなところに橋がかかっている。河原を歩いて踏み抜きそうな橋板の上を渡る。渡り終えたところで一同休憩。馬も荷物を下ろしてもらって岸辺で水を飲んだり草を食べて一休みだ。そのとき、ふと土手の向こうの石の柱に気がついた。
「お姉様。あれ、何かしら」と言っていると、いつも気のきく下男の犬丸が馬方の親方を連れて来て説明させた。
「あれは立石といって大昔からずーっと立っている柱です。でもいつからと言われてもそれはわかりません。昔むかし都からやって来たお役人が立てさせたということです。何の為かといわれるとそれは目印ですよ。なんせこの広い葦原でしょう。茂り過ぎるとどこが橋の場所が分からなくなる時があるんですよ。それに大水が出て道が押し流されてしまった時、元の道の位置を割り出すのになくてはならんのです。あそこの立石の土盛りに登って向こうに見える下総の国府台を見た方角が道の位置なんです。武蔵の方もそうですよ。随分昔に移転していますけどあの丘のあの辺りに昔の豊島郡衙があったそうです。もっともあの立石も洪水で何度か倒れているそうです。私の親父が子供の時分にもそれはスゴイ大水が出て、この辺は海のようになり、その時土台の土盛りも流されてしまいました。まあそれは仕方ないんですが、水が引いた後、生き残った近在の百姓を駆り集めて大道の復旧工事が行われたそうですが、皆役人達に大水よりひどい目に会わされたそうです」。
秋の空は高い。弾む気分で土手を登り、大道で待っている車に乗り込み旅は続く。この辺りは少し高くなっているのか何軒かの民家があり田んぼや畑もある(現在の東京都葛飾区立石)。土地の者はこの辺を立石と呼んでいたが、それはあの石柱の為なのだ。周りを見渡すと、ここはまるで葦の海に浮かぶ島のようだ。これから先は午前中と同じくただ葦原の中を進み、見るものもない。ただお喋りで時間を過ごす。そんな時、行列の物音で、そばの葦原から突然、鳥の群れが飛びたった。まま母さんはその鳥たちを暫く目で追っていたが、小さな声で
「鳰鳥(におどり)の葛飾早稲を餐(にえ)すとも その愛(かな)しきを外(と)に立てめやも」 と口ずさんだ。
「その歌は誰の歌なの?」と聞くと、ちょっと間を置き
「これは万葉集の東歌よ。ちょうど、この地方の人が詠んだ歌だと思うわ。」
姉さんが
「なんで、わざわざ葛飾早稲って産地を限定するの?普通の稲でも意味は同じよね?」
と問い返すと、まま母さんは得たりとばかり
「実は私もこっちに来てから分かったんだけど、葛飾早稲というのはこの地方の人にとっては命より大切なものなのよ。この土地は見渡す限り低い土地でしょう。まだ葛飾早稲というものがなかった古い時代には秋の大風、大雨の季節に、しょっちゅう洪水になって、せっかく実り始めた稲が流されたり倒されてしまったの。そうなると、その年は収穫がなく人は他の場所で物乞いするしか生きる術がなくなってしまうの、いえ多くは餓死したでしょうね。ところが奈良に都ができたころかしら、誰かが秋の大風が来る前に実って収穫できる稲を見つけて少しずつ増やしていったらしいの。それが広まって、やっと、この辺に人が落ち着けるようになったというわけ。まさに、この地方では葛飾早稲が命の綱なのよ。それくらい大切な葛飾早稲だから、その新米を神様に召し上がってもらう新嘗(にいなめ)の祭りは他所の地方とでは比べ物にならないくらい大切で神聖なお祭りなの」。
姉さんは少し考えて
「じゃあ、その歌はこんな風に読み解いたらいいのね。『いくら葛飾早稲を神様に差し上げている新嘗祭の夜だといっても、愛(いと)しいあなたに訪ねてこられたら、外に立たせたまま家に入れないなんて、できるでしょうか。入れてしまいそうです。』でいいのかな」
「そんなとこだけど、もっとせつないのよね。神聖な葛飾早稲の新嘗の夜に、男と夜を過ごすということは、家や村から放り出されるという身の破滅を意味するの。男に抱かれたいという欲望が破滅の恐怖を忘れさせてしまうことへの恐れというか…」
ここまで言うと、まま母さんは外に目をやり口をつぐんでしまった。思いなしか耳のあたりが赤くなったみたい。
「ところで、さっき飛び立った鳥は鳰鳥(におどり、カイツブリ)だったかしら。孝子ちゃんは見ていた?」
「見なかった。でもこのあたりの葦原の中にはどこでも池や小川があるから水鳥には違いないよね。」
「そうね、鳰鳥(におどり)は葛飾だけでなく川や水などにかかる枕言葉だけど、ここだと本当にピッタリね。ところで、さっきの歌はどういう種類の歌かしら?」
「もちろん恋歌でしょう。」
「私も都にいたときは、そう思っていたの。でもこちらに来てから、本当はそうじゃないということがわかった。この歌は葛飾早稲に感謝し、讃える歌なの。燃える恋の切なさは誰にでもわかるから、それと同じくらい葛飾早稲に感謝し愛着を持っているということを伝える歌だと思う。」
「でもこの前、母さんは万葉集の特徴は詠み人の気持ちをそのまま素直に表現していることだと言ったじゃない」
「そうよ、だから恋歌でもあるのだけど…、きっとこれを詠んだ人は娘の頃に激しい恋を経験し、今は葛飾早稲を作って、そのおかげで何とか家族を養ってきた年配の女性ではないかしら。私たちはつい下々の生活の大変さを忘れるけど、生きてゆくのは大変なのよ。」
ちょっと、はぐらかされたような気がする。まま母さんは、まだ二十代で若い。子供がいるから当たり前だけど、上総に下る前には深い仲の人がいたんだ。どんな男の人だったのかしら、どうして結婚できなかったのか、わけは知らないけれど、気恥ずかしいような羨ましいような。都に帰ったら私にも素敵な人が現れるかな…。

そうこうするうち、まだ日が高いうちに今日の宿泊地、隅田の渡しに着く。男達は昨日と同じように、すぐ荷物を向こう岸に渡し始めた。ここは松里のように馬借、車借の家や旅人相手の仮屋、旅の資材を商う商人の小屋もあり結構大きな村で、人も多い。着くとすぐ、人足やら物売りの女たちが集まってきて手際よく川越の準備に取り掛かった。私達は今日はすることもなく、川岸に立ち、川見物をするしかなかった。目を上げると小高い場所に祠のようなものが見える。
「あれなあに」
と、チビちゃんがそちらに向かって駆け出した。
「これはいかん」と後を追うとユリが
「おひい様、笠もかぶらずなんですか、顔を見られますよ」
と笠を持って追いかけてきた。でも男たちは荷物の運搬で忙しく私たちのことなんか誰も見てないのに。着いてみると祠は水神様だった。ここで女たちは旅の無事を祈ってお参りする。まま母さんが
「ここが在五中将(在原業平)で有名な隅田川よ。下総と武蔵の国境になってるの。前に勉強した歌を覚えているかしら?」 と声をかけてきた。
「『名にし負わばいざ言問わむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと』でしょう。でも今日は都鳥はどこに行ったのかしら、姿が見えないね。」
この川は本当に大きく、ゆうゆうと、うねって流れている。どうやら少し北の方で2つの川が合流しているようだ。日が傾き始めると川風が冷たい。だいぶ秋が深まってきたようだ。



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太井川の渡し(市川)
太井川(現、江戸川)2003.1。 対岸が市川市市川、かつて更級日記で「松里」と呼ばれた渡しの比定地である。江戸時代には市川渡しと呼ばれ関所もあった。鉄橋は京成線、その奥に下総国府台の丘が見える。昔は完全に緑の丘であったが現在はマンションなど高層建築も建つ。手前は東京都江戸川区、江戸時代には小岩関所があった。平安時代、渡良瀬川の本流はここを流れていたので、川幅、水量は現在より大きかった。国道14号市川橋から撮影。
下総国府台にある和洋女子大から東京低地を見る(2002.10)。手前を江戸川が流れる。直線道路は隅田に向かう。平安時代は一面の葦のヶ原であったが現在はビルのヶ原である
7.太井川の岸辺で涙の別れ
7.太井川の岸辺で涙の別れ
カイツブリは古くは鳰鳥(におどり)と呼ばれていた。緩い流れや湖沼に生息する体長25cm程度の小型の水鳥。万葉集では「葛飾」や「息長川」の枕詞として登場する。
7.太井川の岸辺で涙の別れ
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