記事コード:
inv2_014

太井川(太日川とも書く、現在の江戸川)での渡河地点はどこか?

関連カテゴリ:
更級日記の考証 > 地理編
携帯やスマートフォンで見る場合、QRコードを読み込んでください。

平安時代に東海道は太井川をどこで渡ったか


 太井川(太日川とも書く、現在の江戸川)での渡河地点は古くは延喜式に見る井上駅であり、江戸時代の市川渡しの位置である。ここには江戸時代の小岩市川関所があり、明治時代に橋ができるまで渡しがあった。現在そこには高さ約8mほどの堤防があり、その上に市川関所の石碑が立っている。江戸時代にはもちろんこのような高い堤防はなかった。対岸の河原には現在江戸川区の運動公園のグラウンドがある。ここから土手に沿って北に少し行くと隅田へ向かう古代直線道路の起点、北小岩がある。もし渡河地点が北小岩の対岸である現在の国府台下の辺り(里見公園裏)だとすると、どうしても真間川の河口を真間の継橋で渡らなければならない。そのような記述がない以上、市川砂洲が太井川にぶつかって尽きるところが渡し場である。それは江戸時代の市川渡しの場所であり、現在は京成線の鉄橋と国道14号が通る市川橋の中間である。
太日川(江戸川)の上が瀬で渡河したと書いてあることから、舟を使わず渡れる上流の浅瀬を渡ったのではないかという論考もある。確かに多数の駄馬を舟で渡すのは大変だから歩いて渡れる浅瀬があれば便利には違いない。しかし当時の太日川が渡良瀬川本流であることを考えれば、歩いて渡れるような瀬はなかったと考える方が自然である。まして数日前に大雨が降っているのである。増水して流れも速かったに違いない。また馬は水を嫌う動物だということも考慮しなければならない。当時の駄馬は馬高120cm程度の小型馬である。そういう馬が恐れずに渡れる水深はせいぜい50cmくらいではなかろうか。
 馬の渡河について話は飛ぶが近代の日中戦争で多数の馬が海を渡り参戦している。その時の馬の多くは欧米から軍馬として導入された大型馬であるが、この馬にしても中国大陸の多くの川やクリーク(水路)を渡るときには、大きな苦労があったことが従軍記に描かれている。馬はもともと水を嫌う動物である。軍馬は水に入ることを前提に訓練されてはいるが、それでも馬は耳に水が入るとパニックになるので深い川では博労役の兵が付いて、馬の耳を押さえ、励ましながら渡るのだという。
 以上の事から、平安時代に太井川は徒渡りはできなかったと結論しておきたい。水量の減った現代でも松戸から下流で徒渡りできる場所はない。泳いで渡ることはできようが、もし見つかったら警察に通報ものである。


この記事に対するお客様の声