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更級作者が屏風を立て並べたような山を見たのはどの地点か?

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平安時代の境川の渡し場の現在地を探る


 『にしとみといふ所の山、繪よくかきたらむ屏風をたてならべたらむやうなり。』
屏風のような山とは現在、遊行寺が建つ台地の末端である。そして江戸時代、歌川広重もこの遊行寺の丘を『東海道五十三次』の藤澤で描いている。平安時代には遊行寺はなく、手前の境川にも橋はなかった。江戸時代には遊行寺にお参りした人々が藤澤橋をわたり境川沿いに下り江の島に向かっている。広重が絵を描いた立地点は砂山観音のある砂丘、と見られる。では更級作者も同じ場所から見たのか?その手がかりは『かたつ方は海、濱のさまも、寄せかえる浪の景色もいみじうおもしろし』という記述にある。彼女は屏風のような山と海岸の両方見える地点にいたのである。では砂山観音の位置はその条件を満たすだろうか?そのためには、海がすぐそばまで湾入していなければならないが、古藤澤湾は平安時代には既に土砂で埋まり海岸線はほぼ現代と同じになっていた(ふじさわの大地、2002年、藤沢市刊行)。砂山観音の位置では海岸線まで約3kmある。そこでは浪の様子までは見えないので、もっと海岸よりでなくてはならない。見晴らすためにはある程度高い場所(砂丘による微高地)であったと想像されるが、そういう場所は洪水時にも水が来ないので渡しの船着場となる。鎌倉時代の渡し場は海岸から約2Km弱の「石上の渡し」であるが、まさにその場所が屏風の山と海が両方見える場所である。現在の地名で言えば藤澤市鵠沼石上2丁目辺り、丁度江ノ電の線路が走っている砂丘上ではなかろうか。
「石上の渡し」は境川と柏尾川が合流した下流にあり、川幅が広いため、舟で渡った。これが現在の藤澤橋あたりの境川であれば、必ずしも舟でわたる必要はなかった。このことから菅原孝標一行の藤澤(西富)への経路もおのずと明らかになる。近世東海道のように遊行寺のある台地を下ってきたのではなく、現在の大船方面からやってきたので、舟で川を渡らなくてはならなかった。
なお、現在の石上の渡しの位置は海岸から2Kmほどであるが、これは大正12年の関東大地震による隆起で海岸が遠くなっている可能性がある(海退現象)。平安時代には海岸はもう少し近かったかもしれない。


砂山観音から望む屏風のような山(遊行寺)
現代の屏風を立てたような山である。ビルが多く全貌が分からない。

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