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平安時代の車とは具体的にどんなもの?

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平安時代の車の構造


 菅原家一行は少なくとも隅田までは車を使ったことが更級日記から分かる。その後、車はどこまで使えたであろうか?この車とは馬車であろうか?牛車であろうか?はたまた人が引っ張る手車であろうか?日記の記述からどれか分からない。
 平安時代の文学に登場する車はたいていの場合牛車である。確かに京都は平たんで、牛車を利用する人口も多く、それに伴う牽引用の牛、牛飼いさんもたくさんいたので、それでいいと思う。牛車の現物も現存するので、その構造を知ることができる。それによると、構造は極めて原始的で、木製車輪、木製軸受け、サスペンションなし、ブレーキなしなので乗り心地は極めて悪かった。これは実際に人が乗って検証されている。もちろん軸受にはベアリング等ないから、人がそばについて車軸に油をさす必要があったとか。
 一方地方では、牛車の日常的利用は少ないので、もし、使うとすれば専用の牛ではなく農耕用の牛を臨時に使うしかない。そういう牛は果たして使い物になるであろうか。しかも地方の道は傾斜もあるだろうし、デコボコの悪路が多そうである。おそらく牛車は地方では使われていなかったのではないだろうか。となれば、人間が引く手車ということになる。結局、大八車に幌をかけたようなものだが、車輪は木製なので、動かすのは大変だったろう。実はタイヤの付いたリヤカーしか知らない現代人には大八車でも、とても重くて引きづらい。したがって傾斜がある道を手車で行くのはとても困難で、車は平たん地でしか使えなかったと考えた方が良さそうだ。結局、起伏のある土地、山間部は荷物の運搬は人の肩と馬の背ということになる。それでも車の不具合にまつわるトラブルを考えればそれが一番問題のない方法である。


画像は北野天神縁起(京都・北野天満宮蔵)にある菅原道真が配流先の大宰府に向けて出発するときの様子である。


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