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『権記』(藤原行成日記)に見る菅原孝標の人となり

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『権記』(藤原行成日記)に見る菅原孝標の人となり


 更級日記の作者の父菅原孝標は、現代では「作者の父」ということで名が残った感がありますが、その実像はどうであったでしょう?これまでに出版された本にはいろんなことが書かれていますが、総じて女性著者は孝標に対して辛らつです。ダメ親父の典型のごとくこき下ろす方もいらっしゃいます。一方、男性著者は彼の不器用さを認めつつも、そのまじめな生き方を肯定し、共感さえ感じている場合がほとんどです。この評価の違いは男と女の立場の違いによるものでしょうか。
 さて菅原孝標の人物像について、池田利夫氏は当時の文献、特に藤原行成の日記『權記』の一時期に孝標が頻繁に登場することに着目しています。長保2年孝標は蔵人に任ぜられますが書家としても有名な藤原行成は、年齢こそ孝標と同年でしたが、蔵人の頭で孝標の上司に当たります。行成は有能なばかりでなく宮廷遊泳術にもたけた人であったらしく權大納言まで昇進しています。その『権記』に登場する28歳の孝標は従来の孝標像とは全く異なり、活発に仕事をする新進気鋭の青年官僚です。二、三の失敗もあったようですが若気の至りというところでしょうか。その彼が受領に任官するのが四十半ば。従来、学問の家であるのに文章博士にも大学頭にもなれなかったのは、ひとえに彼の凡庸さのためだとされてきました。しかし、『権記』に見られる頃の孝標が順調に昇進しているところを見れば、その後の不遇は彼の能力以外の所に原因があったと見るしかありません。彼の父は17歳のときに亡くなっています。彼がいつ結婚したのかは定かではありませんが、28歳頃とするものがあります。ちょうど蔵人任官の頃で生活の見通しが立った頃と考えれば現代の感覚でも納得が行きます。ところが結婚の相手が藤原倫寧の娘さんです。結婚するときには倫寧はとうの昔になくなっています。一体誰が娘さんの親代わりだったのでしょう?普通は自分の親か妻の親が任官運動してくれるものなのですが、それがいない。下級官僚のポストならば口も多いので、それほど競争も厳しくないのですが、上に行くほどあの手、この手で必死に運動しないと、誰も自分の息子が可愛いのですから、ポストには与れません。現代でも自分の栄達より国の将来を憂れえて行動する人は変人と言われるくらいですから、当時は親がいないことは致命的であったと思います。まして文章博士など定員の少ないポストは孝標の父が亡くなって、そのポジションが別の流れに移ると、孝標が適齢期になったからといっても、今更それを取り戻すことは不可能になってしまったのでしょう。それで已む無く、口の多い受領に転身したということではないでしょうか。
 しかし池田氏の指摘のように孝標の息子、定義以降、氏の長者、文章博士、大学頭は全てこの孝標の流れが独占していることを見れば、これを定義一人の才覚のみに帰す事は出来ず、孝標の陰に日向の助力があったことを認めないわけには行きません。孝標は自分自身を踏み台にして子孫を菅原家本流の地位に押し上げた功労者といえないでしょうか。(池田利夫、更級日記浜松中納言物語コウp.23)  ところで、孝標と行成の人間関係はどうであったでしょう?帰京後、当然挨拶に行ったでしょうが、その時、更級作者のために娘さんの書いた手習いの手本を頂戴しています。こんなことは相当親密な仲でないとやらないものです。行成は、まだ年端の行かない更級作者のためには能書家である自分の手本よりも、娘さんの女文字の方が親しみやすかろうと考えていたようにも思えます。若いときの仕事仲間というのは、まだ利害関係も少なく「おれ、お前」の友達関係が長く続くものです。二人の関係もそういうものではなかったでしょうか。有名な猫の話でも女性の方は「なんと常識外れな!」と眉をしかめられるようですが、二人の人間関係はそういうことを言っても素直に受け入れられる「男と男の間柄」だったと思うのです。他方、若いときの関係を利用して、出世した行成に任官の無心をしに行ったのではないかと推測する向きもありますが、「そんなことはない!」と断言できます。親しければ親しいほど、そんなことはしないのが、男というものです(女の人にはわからないかな)。もっとも妻からは相当チクチク言われたと思います。その結果が彼の乏しい経歴となっているのですが、「それでいいんだよ、孝標君」というのが大方の親父族(私、松太夫も含めて)の感想ではないでしょうか。


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