作者の乳母の人物像
日記からわかることは、上総で夫をなくし帰京の直前に出産し、帰京後すぐに亡くなっている(治安元年3月1日、1021年4月15日)ことだけです。松里での乳母は更級作者の描写では、まだまだ美しさを残した女性であり、中年という印象はありません。とすると、この人の年齢は30歳を少し出たくらいだったでしょう。更級作者が生まれたときに、乳母として雇用されたということは自分の子供を出産しているわけだから、遅くとも17、8歳には結婚していたということになります。貴族の家の乳母になれるのは農民ではありませんから、おそらく下級役人の娘だったでしょう。その夫は菅原家に仕える家人で、たまたま更級作者とちょうど同じ時期に出産したので、「ちょうどいいから、すぐ来てくれ」ということで乳母となったのではないでしょうか。気になるのは、松里で生まれた子供ですが、作者は赤ん坊のことは何も書いていません。でも何も書かなかったということは死産でも、育たなかったということでもなく、母子ともに無事に京都に戻って来たということだと思います。でも両親を失ったその子は実家で引き取って育ててもらえたでしょうか。養育費は菅原家から十分出たとは思いますが。