更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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更級日記に登場する多胡の浦(たごのうら)とはどこか

多胡の浦(たごのうら)とはどういう場所か



更級日記の難解箇所、「清見の関」の段は現存する清見寺で謎が解ける。 静岡市清見寺にある清見寺は清見の関の関寺として始まったようだ。

清見の関での出来事として『たこの浦は浪たかくて舟にてこきめくる』とあるが、これは一体どこで、何のために舟に乗ったのであろうか。



たこの浦比定地の考察



まづ、『たこの浦』とは普通「田子の浦」という漢字を当てられるので誤解を生んでいる。更級日記に登場する『たこの浦』はあえて漢字表記するなら『多胡の浦』が正しい。根拠は続日本紀に以下の記事が見える。

 『天平勝宝2年3月戊戌(10日)(ユリウス暦750年4月20日)

駿河国守従五位下楢原造東人(ならはらのみやつこあづまひと)ら、部内蘆原(いはら)郡多胡浦の浜に黄金を獲て献る。練金一分、沙金一分。是に東人らに勤臣の姓を賜ふ。』(新日本古典文学大系、続日本紀三、p103、岩波書店)

具体的にどの海域かと言えば、更級日記が教えてくれている。ずばり清見の関の前の海である。ここは清見潟あり、三保の松原あり、しかも富士山がばっちり見える景勝の地であった。現代は埋め立て地になって何の風情もないが、その昔には歌枕になるほど都人には名が知られていた。



尚、これと関連して万葉集の山辺赤人の歌

『田児の浦ゆ うち出でてみればしろたへの 冨士の高嶺に 雪は降りける』

(原文:田兒之浦従 打出而見者 真白衣 不盡能高嶺尓 雪波零家留  万葉集第三巻)に登場する「たこのうら」はどこかという議論がある。整理すると3説あるそうである。いずれも富士山は見える。一番可能性がないのが現代の田子の浦港である。ここでは別に海に漕ぎ出さなくても浜からずっと雄大な富士が見えているので、歌としての意外性、感動が生じない。




  • ①富士川河口、富士市の田子の浦港

  • ②駿河国蘆原郡多胡の浦

  • ③安房国田子の浦(山辺赤人の出身地)



※意外なことだが、清見潟を含む海面がつい最近、明治時代まで”田子の浦”と呼ばれていた文献証拠がある。高山樗牛、『わがそでの記』


 

舟に乗って漕ぎまわった目的は観光遊覧



清見の関は渡河地点でもなく舟に乗る必要などない場所である。なのになんで、波が高いのに舟に乗って漕ぎまわったのか?答えは観光である。この辺の海は台風の季節や冬季でなければ穏やかな海である。晴れたら富士山も見え、白砂青松の三保の松原もある。清見の関寺の下の船着場から清見潟からスタートし、多胡の浦に出て富士山を眺め三保の砂州近くまでぐるっと一回りして戻ってくるコースは、もし現代でも埋め立てさえなければ、絶好の遊覧コースである。



平安時代の旅には休養日が必須である。鎌倉時代に書かれた紀行文はほとんど身の回りの荷物しかなく、ほとんど空身である。しかも鎌倉時代には宿場、街道が整備され格段に旅がしやすくなっていた。そのため旅行期間も短かった。ところが平安時代の国司帰任の旅は悪路の上、大量の荷物を携行する。足柄から根方道を通って富士川を渡り、更に薩埵の崖下を潮に追われるように駆け抜けやっと清見の関にたどり着くという、まるでアフリカ探検隊のような旅であった。この間、まともな宿はなく、寒さが厳しくなっても雨でも降らなければ筵(むしろ)にくるまって野宿である。ところが、清見の関まで来るとほかの地域とは比べ物にならないほど、たくさんの人家があり賑わっていた。ここで一息入れたいのは人情である。家の者、護衛の武士、人足らも2、3日位ゆっくり屋根のある宿で寝て、おいしいものを食べなければ元気が続かない。

で、彼らには休養してもらっている間に、抜け目のない漁師たちが、執事の虎吉のところにやってきて

「上総の前司様ご一行に駿河の名勝、多胡の浦をご案内したいのですが、いかがでございましょう。都からお出でになる高貴な方々は一度は、舟でお回りになります。」などと勧誘すれば、天候が悪くない限り断ることはないだろう。残念ながら更級作者が船に乗った日は曇りで富士山は見えなかったようだ。『浪が高い』とは書いているが、それは更級作者がそれまで海で舟に乗ったことがないからであって、漁師たちにとっては平穏な海だったと思われる。大事なお客様に船酔いでもされては気持ちよくお祝儀を頂けなくなる。



さて、ここで万葉歌人、山辺赤人がどこで富士山を見たかという問題に戻る。キーワードは『うち出でてみれば』である。普通は浜に出てみればと解釈するのであろう。実は筆者、松太夫も小学生の時そう思っていた。しかし、浜に出るのにわざわざそんなことを言うだろうか? 舟で沖に漕ぎ出したからこそ、そういうのではないか。この場所では、奈良時代から身分のある旅行者を遊覧船に乗せることが接待として行われていたのではないだろうか。地図を見れば清見の関の海岸からは崖が邪魔で富士山は見えない。前の海に船で漕ぎ出して(うち出でて)始めて白妙の富士山の秀麗な姿が見える。万葉集の田児の浦は駿河国の蒲原や由比の海岸ではなく清見の関前の海、蘆原(いはら)郡多胡(たご)の浦である。歌の解釈は意訳すると

『多胡の浦「ゆ(から)」舟で沖に漕ぎ出して見ると、これはびっくり、真っ白な富士山が現れ、高い頂上付近には雪が積もっていた』

この歌のポイントは、舟をこぎ出したら崖の蔭から突然真っ白な、大きな富士山が現れるところにある。浜で最初から見えているのなら、何の驚きもない。



以上のような話があればこそ、平安時代にも金持ちが通ると遊覧船を出し商売することが行われていた。庶民というものは、いつの時代にも利を得るのに聡く、特に漁民のように高価な舟という資産を持つ者は稼働率を上げ減価償却をすすめるチャンスを逃さない。



※安房国田子の浦説は実際の眺望を見れば、ありえないことが分かる。画像を見れば分かるが快晴の日にたまたま見えても、富士山と知っていればそうと気づくが、歌の題材にするほどの興趣はわかない。小さく半ばかすんで見える富士山では和歌にならない。

清見の関からの富士山の眺望

明治以前の清見の関(清見寺)前の海岸からは富士山は薩埵山の崖の陰で見えない(赤線A)。清見潟が干潮の時に沖に出るか、潮が満ちていれば舟で漕ぎ出さないと富士山の姿は見えない(赤線B)。

千葉県(安房国)田子の浦から見た富士山

千葉県鋸南町勝山の海岸の前が田子の浦と呼ばれたという。そこの浜でも富士山は見える。ただ快晴の日でもかすむことが多くはっきりは見えない。なかなかいい写真が撮れないので、すぐ近くの鋸山ロープウェーの乗車しおりの写真をコピーさせてもらった。

 

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