更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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更級日記に記された駿河国最後の経過地『ぬまじり(沼尻)』の景観と現在地

平安・鎌倉時代の東海道は既に述べたように、安倍川河畔から宇津の山を越え(『蔦の細道』)、前島(藤枝市)に出て大井川扇状地を横断し、どこかで大井川を渡り遠江国、初倉に到る。

『大井川といふ渡あり。水の、世の常ならず、すり粉などを、濃くて流したらむやうに、白き水、早く流れたり。

ぬまじり(沼尻)という所もすがすがと過ぎて、いみじくわずらひいでて、遠江にかかる』

この場所について、全ての注釈書は未詳としている。しかし、『ぬまじり』という地名を手掛かりに現在地を推定することができる。一般に『尻』という語がつく地名は水の出口につけられる。従って沼尻は沼の水が流れ出す場所にあったと考えられる。その場所の絞り込みには大井川扇状地の古地形を知る必要がある。

タイトル画像は平安時代の大井川扇状地の外国の風景を借用した想像図である。雨の少ない季節には砂礫や岩の多い道であるが歩行は可能である。しかし、いったん雨が降ると沼化し著しく通過困難になる。



大井川下流域扇状地の地理学



この問題については日下雅義氏による『歴史時代における大井川扇状地の地形環境』(1969)という優れた総説がある。ここではまず文献の内容のうち平安時代東海道に関係する部分を抜粋して紹介する。この文献は下記urlででダウンロードできる。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjhg1948/21/1/21_1_1/_pdf



(1)地形の分類



大井川扇状地の特徴は平均高低差が4/1000と小さい事である。このため流れは網流し洪水のたびに流れが変わるということになった。地質は表層土の下は基本的に玉石を含む砂礫で厚さ50m~15mに及ぶ。そのために凹地があっても水は比較的早く引く。扇状地は上位面と下位面に分けられるがその高低差は3~4mに及ぶ場所がある。表土で覆われた上位面が流れの浸食により削られた結果である。第1図、扇状地の概念図に平安時代東海道の推定コースを赤線で示した。



扇状地は第3図のように地形的に分類される。元の文献は白黒印刷だが見やすくするため一部着色した。





(2)旧河道の復元



大井川扇状地の河道は歴史時代以降も頻繁に変わっているが、その変遷について航空写真と古地図、現地調査により復元した。 歴史時代以前大井川の主流は道悦島、細島付近からそのまま東に向かい焼津、田尻付近で海に注いでいた。これは現在の木屋川にほぼ一致する。また忠兵衛から下小杉に向かう流れは現在の栃山川に一致する。

歴史時代になると大井川の主流は田尻以南へと移動した。平安時代には大井川は2~3本に分かれていたと考えられるが詳細は不明。しかし、鎌倉時代の南禅寺文書(建武3年1334)は次のように述べている。

『当寺領、遠江初倉荘内、大井川以東、鮎河郷、江冨郷、吉永郷、藤守郷等 云々』 とあり、鎌倉末期には大井川の主流が、ほぼ現在の位置付近にあったことは明らかである。



(3)居住環境の地域的特色



大井川扇状地における古い時代の洪水の記録はほとんどないが室町時代以降から江戸期には頻繁に水害の記録が現れる。ということはそれ以前も頻繁に水害に見舞われていたことは疑いの余地がない。その中でこの地域にも人が安全に居住できる土地があった。それは




  • ・牧ノ原台地の末端部:初倉、岡田、南原、前玉、横山

  • ・扇状地南縁:上吉田地域

  • ・扇状地中央部:藤守地区

  • ・扇状地北縁:堀之内、小川、禰宜島、石津



北部の小川(こがわ)は微高地の上にあり弥生末期の土器類が出土するなど古くから人の生活の場であった。このため奈良時代には大井川右岸の初倉とともに駅家が置かれた。



平安・鎌倉東海道の大井川扇状地の通過ルートと『沼尻』の現在地推定



平安時代の東海道は既に駅路ではなく初倉ー宇津の山を辿るコースに変わっていた。この間の経由地詳細は不明だが、鎌倉時代の紀行文のコースと同じと考えられる。それは初倉から色尾で台地を下り大井川を舟で渡り前島まで北行する。この間は大井川扇状地で足元が悪い地帯を通過する。更級日記で『ぬまじり(沼尻)という所もすがすがと過ぎ』という表現はこれを踏まえて書かれたものである。裏返せば足元が悪いと聞いていたけれど、どうということなく気分よく通り過ぎた、のである。即ち沼尻はこの扇状地横断3㎞の中にある。

旧河道の復元図に平安時代の東海道推定コースを記入すると、歴史時代以前の大井川旧河道の合流点(忠兵衛)付近を通過する。この場所は西の方から2本の旧河道が交わる結節点にあたる。歴史時代になっても雨の多い季節には西の河道部分には雨がたまり一時的に沼になっていた可能性がある。この結節点はまさに沼の出口であり『沼尻』という地名がぴったりの場所である。この地域はその後徐々に土砂の堆積で埋まり、細い水路を残し沼が消失し平地化するとともに、沼尻という地名も消失してしまったと考えられる。




『沼尻』は現在の住居表示で言えば藤沢市青葉町5丁目から下青島周辺の河川周辺地域にあたる。ここは歴史時代以前の大井川の旧河道である。現在は沼の名残の東光寺谷川が栃山川と名を変えて海に注ぐ。

 

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