更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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岫崎(くきざき)あるいは薩埵(さった)越え

東海道の難所、岫崎あるいは薩埵越えの昔と今



岫崎(くきざき)、現在これは薩埵(さった)越えとして知られている。ここは由比と興津の区間で薩埵山が海に張り出した断崖絶壁を越えるルートである。江戸時代には海岸から山の中腹を削って作られた薩埵峠(標高92m)道を経ていた。しかし、現地の案内板の説明のように江戸時代以前は崖下の磯を干潮の間を見計らって駆け抜ける難所であった。鎌倉時代や平安時代には波打ち際を駆け抜けたのである。潮が満ちている場合には干潮まで待たなければならなかった(下記の万葉の歌参照)。

メイン画像は歌川広重の東海道五十三次、由比。向かって右が薩埵峠に上がる道である。江戸時代初期以前は左の磯に下りて、干潮を待ち、崖の下を通った。
《薩埵峠の歴史》(現地の案内板)

由比倉沢の海中から網にかかって引揚げられた薩埵地蔵をこの山上にお祀りしたので 、それ以後薩埵山と呼ぶ。上代には岩城山と称し万葉集にも詠まれている。

磐城山ただ越えきませ磯崎の 不来海(こぬみ)の浜にわれ立ち待たむ

ここに道が開かれたのは1655年(明暦元年)朝鮮使節の来朝を迎えるためで、それまでの東海道は、崖下の海岸を波の寄せ退く間合いを見て岩伝いに駆け抜ける「親しらず子しらず」の難所であった。

この道は大名行列も通ったので道幅は4メートル以上はあった。畑の奥に今も石積みの跡が見られ、そこまでが江戸時代の道路である。

今のように海岸が通れるようになったのは、安政の大地震(1854年)で地盤が隆起し陸地が生じた結果である。



現在はタイトル画像のように、その狭い海岸をJR在来線、国道1号線が狭い海岸にへばりつくように通っている。

現代の薩埵山と崖と交通路

東名高速道路だけはトンネルで山の中腹を通るが、JR東海道線と国道1号線は崖下を通る。

 

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