更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
文字サイズ

平安時代東海道はなぜ宮路山を通っていたのか

十月の晦日(末日)菅原家の一行は宮路山を通過した(1020年11月23日グレゴリオ暦)。更級日記の記述から、宮路山の「ふもとを通過」したのでではなく、「越えた」ことは明らかである。では具体的にどのような道筋をたどったのだろうか。

『宮路の山といふ所越ゆるほど、十月晦日なるに、紅葉散らで盛りなり。

嵐こそ吹き来ざりけれ宮路山まだもみじ葉の散らで残れる



平安・鎌倉時代の三河山中を抜ける東海道ルート


三河国府から岡崎方面に抜けるルートは一筋しかない。それは現代の国道1号線(近世東海道でもある)や名鉄名古屋線が通る山間の地峡を通るコースである。しかし、平安時代にはこの地峡は通れなかった。なぜなら、このルートは現在より急峻かつ長大な沢で、かつて赤坂地区には湿地帯が広がっていた。ここ音羽川と山陰川が合流する地点(落合)は雨の季節には、通過困難な地域であったことは容易に推測される。この地峡を抜けるには沢の南西側の山の尾根や山麓に上がり、水を避けて歩くしかなかった。沢筋のルートが通れるようになるのは、室町時代以後の事だという。


『平安鎌倉古道』(尾藤卓夫著)には、三河国府(豊川市白鳥町)から北上し現在西明寺のある丘陵の裾伝いに川を左に見て、関川神社の対岸辺りから川を渡り宮路山登山道入るコースが示されている。地形上、大筋このコース以外には考えられないので、そのコースをタイトル画像の地図に示している。登山口から宮路山頂上までの標高差は300mくらいで、ハイキングならばどうということはない。しかし、千年前に狭い道を大量の荷物を携行して人馬が登るのは結構大変であったと想像される。



宮路山の頂上に達する少し手前に尾根の切り通しがありそこを通って尾根の南側の道に出る。但し、千年前に切り通しが存在したかは疑わしい。これが作られたのは軍兵の往来が頻繁になった平安末期ではないだろうか。

宮路古道切通し(現地案内板)

この地は古代・中世の昔から東海道(古道)の「宮路山」の通路にあたっていました。
このことは更級日記をはじめ、多くの紀行文に載っています。室町時代の応永20年(1413年)に現在の東海道ができてから、この「宮路越え」はなくなりました。

豊川市教育委員会


宮路山の尾根筋を下り長沢の集落に向かって下りてゆくと、この道は赤岩神社前に出る。尾藤氏の『平安鎌倉古道』のガイドによればこのまま沢に下りず赤岩神社の境内内から神社裏の山道に入り、再び丘陵の裾野道を進むとされている。しかし現在、赤岩神社の境内は閉鎖されて入れず、地図にも裏山に入る道は示されていない。恐らく平安・鎌倉の古道は既に消滅した可能性が高い。




宮路山の紅葉



宮路山の頂上付近の山麓にはコアブラツツジの群落があり千年前と変わらず其の紅葉を楽しませてくれる。つまり、ここの紅葉はカエデではなくドウダンツツジの仲間であった。


 

カテゴリ一覧

ページトップへ

この記事のレビュー ☆☆☆☆☆ (0)

レビューはありません。

レビューを投稿