相模国の『にしとみ(西富)』の現在地はどこか?
相模国『にしとみ』には屏風のような山がある
これまで、藤沢市西富、遊行寺付近とする説と、箱根の西土肥の訛りで箱根山系をさすという説がある。まず原文を見てみよう。実に名文です。
『にしとみというところの山、絵よく描きたらん屏風を立て並べたらむようなり。片つ方は海、浜の様も寄せ返る浪の景色も、いみじうおもしろし。唐(もろこし)が原といふ所も、砂子いみじう白きを二、三日ゆく。夏は、やまと撫子の濃く薄く錦をひけるやうになむ咲きたる、これは秋の末なれば見えぬ、というに、なお所々はうちこぼれつつ、あわれげに咲きわたれり。もろこしが原に、やまと撫子も咲きけむこそ、など、人々をかしがる』
箱根の山中であれば、唐が原の位置がおかしいし、浜も見えない。また当時は足柄越えの時代であり、箱根に行く理由もないということで、少なくとも箱根説はありえない。では、藤沢の遊行寺付近の西富は問題ないか?
実は西富という地名は明治7年(1874)に西村を西富に改称したものであるという青木家文書が存在する(明治7年御用留)らしい(藤沢市教育委員会「神奈川の古代道」(1997)p.57、p.114)。西富が明治以後の名称ならこれも話にならない。しかし、問題はなぜ明治になって西村を西富に改称したかである。元々西富という村名であったのを、何かの憚りがあって江戸時代、西村と称していたのではないだろうか。維新後、それを元に戻したということは考えられないだろうか?
※松太夫の推測:やはり西富はこの地域の古名であったと思う。それが徳川家康が天下を取って東海道が整備されると、西富という地名はあたかも「西(大坂=豊臣)が富む」といっているようで幕府に対し,憚りがあり西村に改称したのではないだろうか。
実際に遊行寺の境内から海の方、山の方を眺めて見ると、まず、左側は藤沢市街のビル、鉄道etcの建造物のため海は見えない。山も木に邪魔されたり、もやにかすんではっきり見えない(夏に行ったせいか)。このことから仮に更級作者一行が西富に来たとしても、屏風のような山を見た地点は現在の遊行寺のある辺り(現在の藤澤市西富)ではない。それどころか『屏風のような山』とは江戸時代の歌川広重の東海道五十三次、藤澤宿に描かれている遊行寺の立っている山そのものであり、それを遠望したのはもっと海岸よりである。写真は砂山観音から撮ったものである。
藤沢説は浜を歩いた日数からも補強される。西富から海岸を二、三日歩いたというのであるが、仮に中原街道や、延喜式東海道をたどってくると、内陸を通って現在の平塚市に出ると、海岸沿いの道は国府津(こうづ)まで歩いてもせいぜい二日である。藤沢に出たからこそ三日かかる。小総駅(現在の国府津)まで浜に沿って歩き、そこから北上して関本に向かう。以上のことから、菅原家一行は近世東海道に近い道筋(厳密には少し南の横浜市弘明寺を経由する鎌倉街道下ノ道)をたどって相模に入ったと推測される。なお、西富の位置は古くは現在の藤沢市中心部から柏尾川合流地域に及ぶ、もっと広い地域をさした可能性がある。