更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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「くろとの浜」の現在地はどこか?

「くろとの浜」の地理的解釈は「丘の麓にある港の浜」



これまでに出された比定地として木更津の近くの畔戸(くろと)海岸や千葉市幕張の黒砂海岸が提案されているがいずれも同意できない。まづ、畔戸海岸は京に向かう方向とは反対であるから論外である。黒砂海岸は前日の宿泊地池田から近すぎるし、翌日の宿泊地、江戸川河畔のまつざとへは遠すぎる。距離的には岩波文庫「更級日記」西下経一の注にあるように現在の船橋市辺りが妥当である。では具体的にどこかというと、筆者は現在の船橋大神宮(意富比神社)下の濱であったと推定する。

 『くろと』の濱の発音は『くろど』であろう。原典中で作者はくろどの濱の位置を

『片つかたはひろ山なるところの、砂子はるばると白きに松原茂りて』

と表現している。つまり、片方はひろやまで、もう一方は白砂青松の海岸ということである。昔から問題の『ひろやま』であるが、これを「ひらやか」の誤記とする説があるが、まずは間違っていないものとして考えなければならない。古語辞典によれば「ひろ」は広いという意味と畏れ多いという意味がある。広い山では一説のように頂上部が平坦で広々としている砂丘のような場所が想像されるが、幕張から船橋にかけての官道(現在の国道14号線)の沿線にはそのような場所は無い。では畏れ多い聖なる山ならどうか。聖なる山を神社と考えれば現在の船橋大神宮(意富比神社)がある。この神様は延喜式にもある式内社であるから、作者が通った時にはもちろんあった。この神社は海岸沿いの海老川河口に近い丘陵の端にあり少し小高くなっている場所にある(現在標高27m)。この神社の境内には明治時代に木造の洋式灯台(現存)があり海老川河口の港の位置を示していたという。江戸時代にも既に灯明台があり、夜の航海標識として海老川の河口の位置を示していたという。くろ(壟)」は古語辞典によれば「盛り上がった」あるいは「平地にある小高い所」という意味がある。つまり、「くろど」は丘のふもとにある船着場「壟戸」と考えれば無理が無い。現在の船橋大神宮は埋め立てにより、海からかなり離れているが、境内の砂は白砂で貝殻をたくさん含み、当時海岸であったことが理解される。また、海老川から流出する砂で河口部には広々とした『砂子はるばると白き』という景観が生まれる。船橋市史によれば海老川河口はかなり古くから船着場として利用されているという。それはこの辺一帯の海岸が遠浅で船を着けにくいのに海老川の澪筋(みおすじ:水が陸から流れ出すため河道が深くなっている線)のため舟が着け易いためであるとされる。海から戻る際、平坦な海岸線にぽっこり盛上がる丘は格好の目印でそこに船着き場もあるとなれば、人が集まる場所になる。当然そこには海の安全を願うための祠(意富比神社)もあったはずである。ちなみに、意富比神社がこの地域の有力な神社となるのは、後年、源義家の寄進を受けてからである。


 

※太平記に見る「くろ」の用法

出典:兵頭裕巳・校注、岩波文庫「太平記(九)3」

『名越殿討死の事』の中で田の畦道の事を畔(くろ)と表現している。



『ここに、赤松が一族佐用左衛門三郎範家とて、強弓の矢次早、野戦に心ききて、宅宣公が秘せし所をわが物に得たる兵あり。わざと物具を脱いで、徒立ち射手になり、畔(くろ)を伝ひ、藪を潜って、とある畔(くろ)の影に添ひ臥して、大将に近づいて一矢ねらはんとぞ待ったりける。』



※現代語でも方言に残る「くろ」

日経新聞で詳細は忘れたが、ある地方の女性が、裏の畑の畝(うね)の事を『くろをまたいで』と表現している記事を見たことがある。

船橋大神宮の木製灯台

神社のもっとも奥まった場所で小高くなっているところに、江戸時代には航路標識としての常夜灯である灯明台があった。戊申戦争で焼失したのち明治13年に木造灯台が建てられ現存している。この場所の標高は27mで、平安時代には神社のすぐ先が海岸で、海から見れば、ぽっこりっと目立ち、格好のランドマークとなっていたはずである。


くろどの浜の現況

道路のの左側、住宅の列を挟んで船橋大神宮の小高くなった境内がある。浜は埋め立てられ現在は道路となっているので千年前ここで月を愛でながら野営したことは想像もできない。

 

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