『草薙ぎの剱』神話が伝える野火の恐怖と平安時代の野営地の選定
2010年3月に御殿場市、陸上自衛隊東富士演習場で野焼き作業中、住民3人が死亡するという火災事故があった。不安定な風のため炎に囲まれ逃げ場を失なって死亡事故となったのだが、管理する立場にあった人が業務上過失致死罪に問われる事件となった。事件は2019年2月6日に高裁の無罪判決で確定終了したが、富士山の裾野のような広大な野原での「野火の恐怖」を現代日本人に改めて認識させるものであった。
本ページでは日本武尊伝説を通し、古代日本人の野火に対する認識を知り、平安時代の野火を考慮した宿営地選定について考える。
神話の中の野火
歴史好きでなくとも日本人であれば、誰でも三種の神器の一つが『草薙(くさなぎ)の剱(つるぎ)』であることは知っている(だろう?)。古く皇室に伝来していた剱の本物は平安時代末、源平合戦のとき壇ノ浦に沈み失われてしまった。日本書紀によれば素戔嗚尊が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治をしたとき、その尾の中から一本の剱が得られた。叢雲の剱(むらくものつるぎ)と呼ばれたその剱はその後日本武尊(やまとたけるのみこと)に相伝されることになった。東征の途上、日本武尊(ヤマトタケルのミコト)は駿河の国で敵の放った火に囲まれたが、その剱の霊力で周囲の草を薙ぎ払い窮地を脱することができたので、以後「草薙の剱」と呼ばれることになった、という。
日本書紀、日本武尊の東征(景行天皇40年)
『この歳、日本武の尊、初めて駿河に至りたまひしに、其処の賊、陽(いつはり)従ひ、欺きて曰さく、「この野に麋鹿甚多なり。気は朝霧の如く、足は茂林の如し。臨して狩したまへ」とまをす。日本武の尊、その言を信け、野中に入りて覓獣したまふ。賊、王を殺さむとする情あり。王とは日本武尊を謂ふ。火を放ちてその野を焼く。王、欺かえたるを知らして、燧以ちて火を出し、向焼つけて、免るることを得たり。一は云はく、王の佩かせる叢雲の剱、おのづからに抽けて王の傍の草を薙ぎ攘ひ、ここに因りて免るることを得つ。故、その剱に號けて草薙と曰ふといふ。王、「殆に欺かえぬ」とのりたまひて、悉にその賊衆を焚きて滅したまひき。故、其処に號けて焼津と曰ふ。』(武田祐吉校注、日本古典全集日本書紀二、p.165、朝日新聞社)
<現代語訳>
この歳、初めてヤマトタケルのミコトが駿河の国にいらっしゃた時に、この土地に住む賊が従うふりをして「この辺の野には立派な鹿がたくさん居ます。あまりたくさんいるので、鹿の群れが吐く息は朝霧のようで、群れの足はさながら林の様です。近くに行かれて狩をなさったらいかがでしょう」と申しました。ヤマトタケルのミコトはその言葉を真に受けて野原に入り狩を始めました。賊は王を殺すつもりだったのです。王とはヤマトタケルのミコトの事です。賊は野に火を放ちました。王は騙されたことに気づき、火打ち石で火を起こし、向かってくる火の方向に火をつけて、お逃げになることが出来ました。ある書では王の腰に着けていた叢雲(むらくも)の剱が自然に抜けて王の周りの草を薙ぎ払って、焼け死なずに済んだということです。そのために、この剱は草薙ということになったそうです。王は「危うく騙されるところであった」とおっしゃって、賊の一味を全て焼き殺してしまわれました。それで、この場所を焼津と言います。
古代日本人の火災観
日本は古くから大きな火災に見舞われ被害を出してきたが、それは宿命でもあった。京の都も何度も大火に遭い、更級日記の作者の家族、菅原家もせっかく購入した広壮な旧三条院を帰京後、数年で焼失した。瓦葺が圧倒的に少なかった平安京では一たん火事になればなす術もなかった。冬の季節風が強く空気が乾燥する、木造建築の国ではいくら注意しても火災の危険性はなくならない。そのため火災の起こる季節には、火を可能な限り使わなかったと考えられる。例えば更級日記で作者が宮仕えから宿下がりしてきた日の場面を見てみよう。
『十日ばかりありてまかでたれば、父母、炭櫃(すびつ)に火などおこしてゐたりけり。車よりおりたるをうち見て、「おはする時こそ人めも見え、さぶらひなどもありけれ、この日ごろは人声もせず、前に人影もみえず、いと心細くわびしかりつる…」』
このように貴族の家でも、暖房など普段は使わず、特別な日だけ火鉢を使う程度であった。炭代などの余裕はあったはずだから、明らかに火の用心からくるものであった。火気厳禁の平安時代の寒々とした住宅事情が目に浮かぶ。
平安時代の旅の野営地
現代でも時々、ハイカーの火の不始末で山火事が起こる。古代には道路の下草刈という概念はないから、冬には、どこも、ものすごい枯草の海が広がっていた。そのような所で火を使うなど、もっての他の事であった。では旅の一行が野営する時にはどんな場所を選ぶのだろう。
平安時代初期までは駅家が機能していたが、その後廃絶していった。しかし、その跡地は、その後も機能していたと考えられる。なぜかと言えば、大水で水没しない場所で、水場があり、一定の広場があるからである。また街道に沿って等間隔に設けられているので旅をしやすい。言うまでもなく、サービスを提供する住民はいないし、建物もない。それでも思わぬ利得もあった。駅制が機能していた時代、食糧の足しにと植えられていた果樹がまだ枯れずに残っている場所があった。武田勇氏は「二村」で庵の上に落ちてきた柿は自生の渋柿ではなく、植栽された甘い熟柿であると述べている(『三河古道と鎌倉街道』)。ともあれ、平安時代、どこでも場所はありそうに思うものの、野営できる場所は意外と限られていて、冬の枯草が多い時期には相当の広場がなくては火を使うことが出来なかった。冒頭、現代の火災事故でも示したが、横走りの関から御殿場周辺の広大な野原を経て沼津に至る間は意外と宿営に適しておらず、おそらく旧駅家と推定される長倉まで歩く必要があったのではないだろうか。