『春のみやまぢ(深山路)』に見る鎌倉時代における東海道の旅
『春の深山路』は鎌倉時代に飛鳥井雅有により書かれた日記である。飛鳥井雅有(1241~1301年)は藤原北家の流れをくむ公卿・歌人で蹴鞠の名手でもあった。鎌倉幕府の信認が厚く京都の宮廷間との折衝に携わった。この間、何度も東海道を往復しているので、その日記は貴重な史料である。『春のみやまじ』の旅は弘安3年(1280年)日)11月14日から11月26日(グレゴリオ暦12月14日~26日)の13日間の旅程である。本書は歴史地理上重要な文献であるにも関わらず、一般読者向けの古典文学大系本に収録されていない。そこで、旅行記部分のみをここに収録する。ただ原文は漢字かな混じり文ではあるものの「かな」が多く、句読点もないので読みづらい。テキストにした新典社版『春のみやまぢ』には大よその句読点は打ってあるものの、それだけでは不十分なので、試案として現代の漢字表記と句読点で書き直してみた。猶、それでも読解困難な箇所があるが、旅程、地形にはあまり関係がないので、そのままとした。
飛鳥井雅有は古典文学の素養も深く、特に土佐日記、更級日記など、平安時代の文学も読んでいて、それらを意識して、この作品も書かれている。
参考文献:『春のみやまぢ』渡辺静子 校注, 新典社(1984)
以下 p.165以降引用、アラビア数字の月日は筆者が便宜のため挿入
春の深山路(みやまぢ) 飛鳥井雅有
弘安三年十一月十四日(ユリウス暦1280年12月7日、グレゴリオ暦12月14日)出発
たゞ涙のみ、まつゆく道のさきにたちぬる。
法勝寺の南の門にて馬にのりぬ。車は率(ゐ)てゆくを見るにぞ、かへる浪ならねど羨ましかりける。 粟田口にて都の方をかへり見て、
かへりみる都のかたは霞にて そこともしらぬ明け暗(く)れの空
四宮河原を過ぎて逢坂山にかゝる程にかたやふより重清朝臣うちいでたり。この程いたはることありて、人籠りたりしかば、あはで下りぬる歎きをしつるに言ふべき言葉も覚えずうれしくも哀也。
夜深き露にぬれて先立ちて待ちける心ざし言ひやるかたなし。これも猶、逢坂の名ぞ頼まるゝや。 昔神功皇后の御代に、忍熊(をしくま)の王の謀反によりて武内大臣追い来てこゝにて行きあひて討ちたりしより逢坂とは申し由、やまとふみには見えたりし。水のもとにて
氷のみ冬はむすびてあふさかの 関の清水は汲(く)む人もなし
この朝臣なをとゞまらず。駒並(なめ)て打出の濱も打ち過ぎて粟津の濱面なる家に立ち入る。 もとより思ひもうけたりけるにや、こゆるぎ(小余綾)の浪を分け急ぎありく。たがひに名残惜しみてゑいなきにや涙落としつ。 これよりぞとヾまりぬる。瀬田の橋徒(かち)にてぞ渡る。更級の日記には昔みかどの御むすめを盗みてあづまへ逃げ下る。ものゝ追われしとて、この橋を引きたりけりとなん。今は何のためならねと朽ちぬる。半ばたえまがち也。
野路といふ所にてぞ、椎(しゐ)柴折りしきて糒(かれいひ)など人々とり賄ふ。 日暮るゝ程にかヾみ(鏡)の宿にとどまりぬ。 道すがらは行き交ふ旅人このもかのもの山河木草などに目うつるだに猶こし方は忘れぬ習ひをましてとりしづめぬる草の枕の寂しさにつくづくと思へば雲の上春の宮の中これにぞはれる私の(自分の邸)よもきかもとまで思ひのこさず恋しく哀れ也。遊び友来て歌ひのゝしれど心にもいらねば人をい出してぞ遊ばする。月はいと雲もなく鏡の山に陰見ゆれど心はかき暮らしてぞある
立ちよれば月にぞ見ゆるかヾみ山しのぶ都の夜半のおもかげ
さにやと思へどいかならんと、猶おぼつかなきぞわりなき。打ちたえて寝られねば夢にだに隔たりぬるぞ恨めしき。
11月15日(グレゴリオ暦12月15日)
十五日明くれば発つ。昨日送りし者どもも帰らんとすれば、袖の中にも入やしぬらん心地もありとしもなし。 しゐて都の方を返り見れば、雪いと白き山の嶺のむら雲に月うすく残りたるしも悲し。
明け残る光も薄し雲迷う 都の方の山の端の月
老蘇(をいそ)の森といふところにて
かつみてもよそに思ひし森の名も 我身につもる霜の下草
山のまへといふ所は駒の蹄隠るゝ程なる水を流れのまゝに十余町や行くらん。踏みあけらるゝ水の騒ぎにいたく袖は濡れぬ。古き歌に添うといへるはかようなる心にや、
旅衣おりたつ田子にあらねども都恋ぢに袖は濡れつつ
さる程に時雨降りきぬ。このあか月のくもりつるけにや、
かヾみ山このあか月のくもりしや けふの時雨のはじめなりけん
昼、ゑち河(愛知川)と云所に立ち入る。 つくづくと思ひ出れば、たヾ今は御学問の程にや。 下侍らすは廂(ひさし)に出で、とまで御待ち顔にてながめゐましと迄覚ゆるぞ、あまりけしからぬ心なるや。河せ(川瀬)といふ渡たりの道ありつる。時雨や過ぎつらん、たとへしなく悪し。 人も馬も足の踏み所もなく滑りて悪ろきに、この旅人(雅有自身)なん空蝉の伊予の守よりもこよなふ太りたるに馬はいと脚弱きに危なけれなれと、さしもやと思ひたゆみて、猶こし方のこと思ひつゞけ行くに片高なる所のことに滑るに馬なしかはたまらん。 四の脚を一になして倒れぬ。この上傾きの太り翁猿(自分の容姿を茶花して言っている)は若盛り少しかようのこと慣れにければ、あはたヾし、さながら降り立ちけるが、我も足踏みためずして倒れにけり。 蓑代衣(みのしろころも)袖もしとゞになりぬ。あさましくをかしけれど、いかにせん。 さて異馬(ことうま)に乗り換えてぞ行きける。犬上と云所にて鳥籠(とこ)の山、不知哉(いさや)河など尋ぬれど、その渡りの民し瓦様の物も知らずとなんいふ。 昔ある者これかれなと申侍しも、おい(老い)のむもれ(埋もれ)に忘れにけり。いさとこたへえよと、あめの帝ののたまわせるけるも見てこそ偲ばまほしけれど甲斐なし。 小椋(をくら)と云ふ里の名ぞ都の西山覚えて住みなれしことさへ思い出らるゝ。又時雨して蓑笠(みかさ)もとりあえず濡る。晴れ曇り神無月ならねど空定(さだ)めなし。 暮るる程に摺鉢山を登りて、暗めにぞ番場の宿には着きぬる。今日の道の悪しさにやがてうち臥しぬれば、寝る。かうちはたヾ元の都にて覚むる空ぞ旅の宿りいと口惜しき。 山も三つまで隔てぬれば、ながめやるかたなし。又うちまどろめばただ古(ふる)郷也、
草枕夢にぞみゆるふるさとの いもが寝覚に我や恋ふらん
君やくる我やゆくらん草枕 旅寝の夢にあひ見つるかな
11月16日(グレゴリオ暦12月16日)
十六日今日は道も遠し。又悪しき所多しとてあか月かけてぞ発つ。月峯に残りていと心細し、
都とて月のゆくゑをながむればたゞ白雲の嶺の松風
醒ヶ井の清水は行く人も氷も今朝は結ばず。夏ならましかばかくすさむることなからまし。折にあはぬ身の上にて思ひしらる。 昔の日本武尊の伊吹の神のげに心地そこなへり給けるに、此水にて心地なをりたまへるよりさめが井となづくるよし日本記といふ文にみえたり。 されどこし方の恋しさ醒(さ)むるかたなし。今宵の宿りより一里とぞ云なる。伊吹の山を見れば雪いと白し。昨日の時雨は此の雪げにこそ不破の関近くなるまゝに藤川の橋渡るとてさきの旅上りし時思しことなどと思ひつゞけられて
いましはと思ひたえにし東路に また行きかよふ関の藤河
大車肥馬に乗らねど(大層な身分ではないが)世に長らえば、まへよ(前世)如何なることもこそと、はかなき行く末の頼みばかりになん。 不破の関屋を見れば東宮のいつとなく待ち遠にのみ思したる。御即位の時はこの関をも固めこそはし侍らんかしと思へば涙曇り、この旅数ふればみても十度にぞなるにや。醒ヶ井よりはこの関三里なり。
をかや(尾萱)葺く不破の関屋は我見ても 久しく成りぬ板廂(ひさし)かな
都にも不破の関とを今日越ゆと 東路ながら人は知るらん
野上の方を見やりて、関より此の所へは一里也。
関越えて野上の方を見渡せば霜(しも)の草葉に嵐吹くなり
春ならば鶯の声も聞きてましとうち眺めて宿を借る。番場より此の宿へは五里也。 猶道遠しと言えば暫し休むこともなく出でぬ。 青野と云名は春夏の緑ばかりにや。 秋はいろいろの花にこそあるらめと思ひやらる。この比は又ひとつ色ながらたゞ霜枯れにてぞあめる。 青墓の宿は昔その名高き里なれど今は家も少なう、遊びもなかめり。故宰相の名はおおかたの青墓の里とよみ給へりも、げにはかなく跡とも見えず。 赤坂の宿いつの度にか二たび泊りたりしぞかしと思へば何となく知らぬ里には似すぞ有かし。 住む所愛(いとし)とかや戒むるなるもげに理(ことわり)なりや。 笠縫河の橋いと狭くてたゞ板一つ渡したり。引かせたる馬落ち入りぬ。あさまし供目もあや也。 供なる者かようの方、人に劣らぬ物也ければ飛び入りて泳ぎつゝ引き揚げぬ。いつぞやもかゝること、この河にて有しこそむつかしき先例なれ。 暮れて墨俣といふ所に着きぬ。野上よりは五里とかや。 猶遠き心地ぞするや番場よりは十里也。此所のやう(様)河よりははるかに里はさかり(隔)りたり。 前に堤を高くつき(築)たれば山のごとし。窪みにぞ家どもはある。里の人の云うやう、水出でたる時は舟此の堤の上に行く。 空に行く舟とぞ見ゆるよ云ふを聞けば天の鳩船の飛び翔けりけんもかくやとぞ聞ゐたる。
11月17日(グレゴリオ暦12月17日)
十七日、今日道近しと、てをし(亭主?)のとめたり。夜明けはてゝ河の堤にて見れば、この河は美濃と尾張との中に流れたり。待つ雑人どもを渡す川端にゐつゝ渡し舟待つほどに、東路の隅田川ならずとも言問ふ鳥もがなとうち眺めらる。袖ぞ例の渡らぬさきにひぢぬるや。この渡り近く河面に高桑の宮とて雅成親王の御荘にておはしき宮と申す名もむつまじくて急ぎ見やれば、たゞ白砂の岸遠くして青松の垣の跡のみあり。いとヾ慰(なぐさ)むかたなし。いづくに移ろい給ひにけんと、そのことゝなくあはれなり。杭瀬川は速く深くして恐ろしき河なれども、征夷大将軍の御台所近き程に下り給ふとて浮橋渡したれば思ふことなくて渡りぬ。玉の井の宿ひととせ(先年の意)見しには三葉四葉に造り重ねたりしが、焼けて藁屋の軒竹の網戸いまだ疎(おろそ)かなり。是へ昨夜(よべ)の宿より二里也。はや馬とて馳せ歩く。げに世の中の静かならぬ程もあはれ也。顔回が巷になきけんも思ひしらる。くろとといふ所にたち入る。この国をゝはり(尾張)と申す事は昔恋する人のこの国まで尋ね来てこれにて死にゝけるよりをはり(尾張)とは申すとかや。をりと(現、下津)ゝいふ宿も過ぎぬれば、やうやう今宵の泊りも近くなりぬ。今日は道良くて駒もなつまず。日の入り程よりもとく萱津に着きぬ。はらからならぬ(異腹の)おとゝ(弟)定有昨日より待ちけるとてこゝにもとよりあり。やがて所につけたる主(あるじ)して強ゐそしぬ君少々来たれど、やがて立ち入る、いつぞやありし君のいまだかたなり(固成り?)なりしが、老い出たるよし。この丹後の前司語ればゆかしくてその宿へぬすみて行きて遊びぬ。昔慣れ侍りしものゝ名残にもと思へども形見にもなずろふべきならねば、むなしく蓬(よもぎ)のまろねにて明かしぬ。今日よりは松の色も都には似ずぞなりにたる。
11月18日(グレゴリオ暦12月18日)
十八日、よべ(昨夜)ふくるまで遊びて上下寝すぎぬれば、日出る程にぞ発ちぬる。 熱田の宮は昔日本武命、吾妻を平らげ給ひし時、夷(えびす)、野に火をかけて命(みこと)を焼殺さんとしけるを大きなる桂の木焼けて倒ふれたりけるに田中の水熱くなりたりしより熱田といふ也。其の時天の早切りの剣にて草を薙ぎて逃れ給ひしかば、その剣を草薙の剣(つるぎ)と申しき。その剣をこの御社に斎ひて侍れば、いちはやき神にぞおはしますなる。此の夏比宮のうちおどろおどろしく鳴り響きつゝ、つい(続)松の火多く四五千ばかりにて向かへの伊良湖が崎まで続けり。古にし文永の初めつかたもかくありけるとかや。蒙古の国の故とぞ後には思ひ合わせけるとかや。いよいよ新たに覚ゆれど精進をせねば参らず。心の内ばかりに法施(念仏)まいらせて過ぎぬ。この丹後の前の司(さきの前司)なる男、あまの家に押し入りて潮干待つ間は浦隠れ居侍らんとて、酒取り寄せつゝ名残を惜しみつゝ遊ぶ。三百杯ならねど(和漢朗詠集を引く)手を盃に分かちて各々あざれゐたり。潮干ぬと申せばうち出ず。これよりこの男帰りぬ。鳴海潟は今干始むれば馬の蹄着くばかりに浪流れて中々興あり。
鳴海潟思はぬ方に引く浪の はやく都にいかで帰らん
みしよの松もあり。潮満つ時は入りぬる磯の草葉ならねど葉末ぞばかり残るらんかし。五十町といへども道良くて駒も速ければ程なく鳴海の宿に着きぬ。この地蔵堂には安賀門院の左衛門佐、歌書き付けたれば見まほしけれどもあまり風吹き寒くて人わぶれば見で過ぎぬ。この度は必ずそのてとみて物語にもさること侍りしかなとぞ、都のつとには語るべき。二村山の嵐ことに寒し。
三河の国になりぬればひとえに野をゆく。霜枯れの道芝をのみ踏みならしつゝ過ぐるもいと寂しや。 八橋は先達どもやうやうに釈したり。くもで(蜘蛛手)とは昔はいかにかありけん。今はたゞ二の橋なり。能因法師は谷の橋と申し侍けるも、なをいかゞと聞こゆ。杜若(かきつばた)も今はなし。何をか句の頭に置きて歌も詠むべき。萱津よりこの八橋の宿まで九里とかや。
かきくらし時雨るゝまではなけれども雪げの雲や二村の山
11月19日(グレゴリオ暦12月19日)
(11月19日~11月22日、八橋から清見関まで間の4日間の旅の記録が抜けている。 以下の記事は、興津宿以降)
11月23日(グレゴリオ暦12月23日)
日たく(長)れば急ぎ出でぬ。浦路(うらぢ)は例の関守ゆるす暇なければ、山路にかかる。
前々の道ならでは、あらぬ道にぞ入りぬる。せば(狭)き道の片方(かたがた)は崖にて海見下ろさるれば、危うきこと木曽路の橋よりも猶、心ぞうらびれゆく。 越え果てゝ由比といふ所過ぎて又海人(あま)の塩屋五六ばかりなる所に木陰あり。問えば堰沢(せきざわ)とぞいふなる。海人(あま)の住む里をば、小金とぞ申す。 海づらを四里ばかり行きて神原(蒲原)と云ふ宿にとゞまりぬ。はるかに聞かざりし浪の音たゞ枕の下に聞こゆ。
11月24日(グレゴリオ暦12月24日)
廿四日、富士河も袖つくばかり浅くて心をくだく浪もなし。あまた瀬流れ分かれたる中に家少々あり。せきの嶋とぞ云ふなる。また少宿あり。田子の宿とぞ申すめる。 宿の端に川あり。潤井(うるひ)川、是は浅間大明神本殿(ほう殿)の下より出でたる、御手洗(みたらし)の末とかや。葛城の神ならねど橋渡しさしたれば(わたらさしされば)、舟にてぞ渡る。 供の者ども渡るを待つ程、葭原(よしはら)とて少家のあるに立ち入りて、あまり寒ければ柴折りくべて、つくづくと富士の山見やりてぞ居たる。 時しらす雪の降ることは国づくりの神の宿借りけるに、此の神貸さざりければ、かの神の御ちかひにてかくなむ、いつも寒く雪降るとかや。 煙の立つこと竹取の翁の物語にぞ、不死の薬を此の山にて焚きたりしに、それより立つとは見えて侍れど、猶おぼつかなし。山の前の辰巳の方なる山は天人の天下りて築(つき)たるよし富士山の記に見えたり。いと不思議なること也。あしが嶺ともいふ。又裾山とも云ふとぞ土人は申し侍る。人待ち告げて出(い)ず。浮島ヶ原、ただ、真砂地に芝のみぞ生いたる。北は富士、裾は広き沼也。浮嶋が原のうちなれど小石多し。青野、小松原、柏原などもいふ所あり。さのみはしるし難し。塩焼く烟の西になびきたるを見て、
こし方になびきにけりな藻塩焼く 烟にたぐふ我思いかな
たごの浦浪まことにひまなく立ち騒ぐ様いと面白し。沼のいと広きに群れ居る鳥の羽音を舟に棹さして通ふ賎(しず)の有様、絵に描かまほし。原中の宿と云う所に立ち入りぬ。暮れぬべしと急げば、又こころ慌ただしくて出ず。車返しの所までは二里とかや。黄瀬川は足柄へかかる道なれば、よそに見て過ぐる。駿河の国府(こう)近くなりて小河あり。雨降り河となんいふと申せば、その故を問へば雨降らんとては、水なくなると申す。興あること也。水なしの池こそ、さようには清少納言枕草紙に書きたれ。国府に着きぬれば誠に御手洗(みたらし)河のいさきよし神の御心も推し量られて尊し。是は三嶋の明神にておはします。伊予の三嶋よりは此の三嶋を本神と申す。これより伊予を本社と申すなるこそいとめでたけれ。仁徳天皇と東宮と位を互いに譲りおはしましゝこ事も思ひ出られて今の世の人の我々と争ひいふこそ恥ずかしけれ。十音の述懐歌を詠じて奉恩せんと思ひてぞ、詠(よ)みゐたる。この家あるじみこの第四のさとかや。ゆゝしくまさしきわらはかんなきあるよし申せば心みんと思ひて、よはせて神おろさせて、人して問はす。身のこたへあり。やがてかなふべし。官達の素望あり。すこし遅くあらんかし、四十は喜びあるべし。又かたじけなき人の御ことを鎌倉にて申さんと思ふいかゞあるべき。目出度かるべし。構へて慶びどもして、明年の秋よりさきに京へ帰り忍ばせ給へと申せば、やすきことゝ仰せらるゝと申せば、まづ嬉しくて思ふごとくかなひて、秋よりさきに返り上らん時は喜び申すべし。
よくよく祈れとぞ申しやる。大方巫(かんなぎ)ていのことは、耳の外に覚え侍れと、所に従い又あまりにのぼりたさと云ひ、方々あらましも心地よければ、とひて失(なくさ)むぞはかなきや。
暁発つとて、御幣参らせて此の十首の歌読み明けさせつ。宿の主を祖師と頼むる。
11月25日(グレゴリオ暦12月25日)
廿五日、夜深き月に箱根山にかかりぬ。日出るほどに高嶺にて見回せば、異(こと)山には未だ日の光も見えず。空も未だにほはぬ程に富士の腰より上ばかりに降りたるは、はや雲井に高き程とぞ知らる。日、異(こと)山の高根を出ずる時ぞ裾のそまたつ程、しば山の麓などに影は見ゆる。又雲の異山の頂きより立ちわたりたるも富士の山しより下様にぞ、そひきたるや。いかに高き山といふもこれらにて思へば富士の裾野ひらひらと見ゆる皴の程にぞ、ひとしかるらんと見えたり。比叡の山廿ばかり重ねたらんやうなりと業平の書きたるはあまりにやあるらん。またさもやあるらん知り難し。昨日今日よくよく見侍りしに、比叡の山三四あるらんかし。箱根は未だ雪降らず霜ぞ降り凍りて、道はことに滑りて危うき事限りなし。かろうじて葦川といふ山の中、みず海のはたに立ち入りぬ。高き山の頂に広さ三十町なり。西の方なるみず海にて雨降れども水まさらず。日照れども水干ず。不思議なり。又この山には地獄とかやもありて、死人常に人に行きあひて、故郷へ言付けなどするよし、あまた記せり。いかなる事にかいと不思議なり。芦のうみの湯とて温泉もあり。いかさまにも不思議多し。箱根の権現とて昔役優婆塞(えんのうばそく)の行ひて給へるとて伊豆箱根二所とて熊野のやうにあらたなる御神なんおはします。そのかみ中宮の御供に参りたりし事などと思ひつゞけられられて、この海をば御舟にてこそ、棹さして渡りしかなと思いつればあはれなり。日暮れにたり。行く末は道猶はるけしと言ひて慌ただしく出でぬ。酒匂の宿に暮るゝ程に着きたれば例の君あまども又若き遊びども来して、強いのゝしる。くたびれぬれば臥しぬ。
11月26日(グレゴリオ暦12月26日)到着
廿六日、とく発たむとすれば、此のものども来て猶、強ゐゝたり。日長けて出でぬ。暮るゝ程に永福寺の僧房に着きぬ。年ごろ住み慣れし故郷は焼けて、かかる所に来ぬればあらぬ世の心地して、いとゞ都のみ恋しきこといわん限りなし。
鎌倉での大晦日の出来事
師走の晦(つごもり)の日は精進にて過ぎぬる年の日数にあてゝ滅罪のために光明真言見て、来ん年の日数に又心経読みて祈りつゝ苦しければ休まんとする程に中納言の律師詣できたれば、年の名残惜しまんとて、積もれば老いとなる盃さし出でて、年の暮れとも言わず、心のどかに物語するに京より文どもあり。 見れば東宮の御方よりとてあるを、まづ慌て見れば、右衛門督局の文こまかにて、下りし後の御日記、御さぐり題の短冊下し給はる。目もくれて読みもとかれねば、律師に読ませて泣きゐたり。かゝらぬにだにゑゐ泣きはするくせに、ましてかやうに仰せ下さるれば、とどめ難き涙ならんかし。さぐ(探)り題に旅といふことをとて
そらにのみ心はゆきてかよふともしらでや越る関の旅人
十一月十五日御手習ひ
旅人はうつりにけらしかゞみ山 見なれしあとに影もとまらず
今宵は二番なれば女房とて二番は当番なり
書き付けしその名ばかりを水茎の あとにぞ忍ぶ人のおもかげ
十二月一日、吾妻へ便ありとて文書く所にて
いまも猶夕つげ鳥の音(ね)をやなく いひしにかはる心ならずは
此の歌は下り侍りし時御会にかねてより夕つげ鳥の音をぞ鳴く越えん日近き関のこなたにと、詠み侍りしことを思し召し出でたるなめり。
とりあえぬ涙のまぎれに、
あふ坂の夕つげ鳥よいつまでと関路へだてて音をつくすらん