平安時代、弘明寺の港は『古代横浜港』か
弘明寺十一面観音像の謎
横浜市南区弘明寺町にある「弘明寺」は寺伝によれば天平9年(738)行基によって現在に残る十一面観音像を彫刻安置したことに始まるという。しかし、これには裏付けがなく、そもそも、行基が関東までやってきたかどうかも疑わしい。確かなところは寛徳元年(1044)光慧上人により本堂が建立されたというところである。おそらく、十一面観音像はそれ以前から存在し、それまで草堂(草ぶきの粗末な御堂)に安置されていたものが、瓦葺、あるいは檜皮葺の雨漏りのしない立派な御堂に建て替えられたということではないだろうか。更級日記の一向は、おそらく、まだ草堂時代の観音様にお参りしたと想像される。しかし、当時の横浜は草深い海辺の集落に過ぎなかった筈なのに、何故このような立派な観音像があったのだろうか。
現在に残る十一面観音像は平安時代中期の作とされるが、 素人が彫ったものでないことは明らかである(実物を拝観したわけではなく、あくまで写真を見ての感想)。おそらく京都から仏師を招いて彫ってもらったのだろう。結論を先に言えば「弘明寺」は平安時代の東京湾西岸の水陸の交通の要衝にあり、寺は海難に対する安全祈願所として始まったと考えるのが妥当である。等身大の精緻な観音像は、それを寄進するほどの経済力が当時のこの地域にあったことの証拠であろう。現在の弘明寺にはその面影は全く残されていないので、誰もそんなことは考えないが、機能からいえば現代の横浜港とまったく同じである。
隆盛を極めた弘明寺の港であったが、大岡川河口に位置していたために、たび重なる大岡川の氾濫で土砂が入り江に流れこみ、水深が浅くなった結果、おそらく鎌倉時代には商港としての機能は少し南の六浦にとって代わられることになる。さらに時代が下り、室町時代頃には港として全く機能しなくなり、江戸時代に至り、入り江そのものが干拓され吉田新田という耕地になってしまった。港としての機能がなくなると東海道がここを通る意味もなくなり、より近道である権太坂経由の近世東海道のルートに変遷していったと考えられる。
弘明寺十一面観音像
画像出典:弘明寺拝観しおり