更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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平安時代東海道駿河路における永倉(長倉)駅家を探す

平安時代東海道駿河路・永倉(長倉)駅家はどこか



平安時代前期の東海道には延喜式によれば駿河の国には6駅があった。西から小河(小川)、横田、息津、蒲原、柏原、永倉(長倉)、横走であるが、いずれも遺跡調査で現在地が確定されたものはない。確実に言えるのは駅の配置順序である。当サイトでは横走駅を静岡県駿東郡小山町竹之下にある『横山遺跡』(現、小山高校)であると推定している。そこを起点とすれば永倉駅は20km前後南下した地点が望ましい。更級日記一行が通った時期には既に駅制は衰退し駅家の機能は失われていたが、それでも宿営地として好立地のため経由地としては重要である。

これまで永倉駅の比定地として『古代日本の交通路Ⅰ』によれば長泉町下長窪付近か、同町本宿付近とする説があるが、いずれも決め手がない。また永倉駅は時期により数度移転した可能性があるという。ただ、ここで問題にしているのは、駅家廃絶後の跡地であり、どこが宿営地として適地かという問題なので、最後の駅家であるかはどうでもよく、古い駅家跡でも構わない。

 駅家跡が工事現場から偶然に姿を現すのを待っている訳にはゆかないので、駅家の設置条件から位置を絞り込んでみよう。

永倉駅家の設置条件とは




  1. 東海道沿いである

  2. 大水で水没しない

  3. 水場がある

  4. ある程度開けた面積がある

  5. 次の駅家までの距離が当時の30里(16~17㎞)



愛鷹山南麓ー足柄峠越え東海道の推定コースを旧版地形図に示した。このコースは出来る限り黄瀬川西岸であることを考慮している。渡河するとしても、できるだけ上流とする。 当たり前の話だが、川を渡るのは増水時や冬季は大変である。

一方、宿営するためには、水が必要で、特に馬を飼育するためには欠かせない。駅家では多くの馬を扱うために、ある程度の広場が必要である。



永倉駅家の候補地の提案



駅家の候補地として長泉町下長窪と本宿が挙げられているが、本宿は黄瀬川東岸であるから、足柄路の場合は外れる(箱根路を考えた場合には生きてくる)。下長窪はそれほど広い地域ではないので、絞り込みはそれ程難しくない。下長窪には地図(現代)に示す一辺80m程の正方形の道路がある(※注.参照)。囲まれる正方形の内部は民家と水田、畑があるだけで生活道路としては、この正方形の道路は不自然である。この道路がいつからあるかが問題だが、残念なことに明治20年の2万分の一地形図では、はっきりしない。周辺の標高は79mで冠水する心配はない。水路も近くを通り、水の心配もない。駅間距離の問題については、次の駅家、横走駅まで20kmを越え多少距離があるが、この区間が緩い傾斜ないしは、ほとんど富士の裾野部分で平坦であることを考えれば、区間距離として、それほど無理はない。また、他の駅路の駅家の区間距離を見ても20㎞を越える例は珍しくない。従って、この場所に駅家があったとしても無理はない。とはいえ発掘調査で決定的遺構、遺物が出土しない限り推測にとどまる。

※注)山陽道で発掘調査で確定された布勢駅、賀古駅は一辺約80mの正方形敷地であった。

永倉駅家の推定位置

約80mの正方形の道路で囲まれた区画は駅家敷地ではないか? 薄ピンクで東海道の推定位置を示す。


明治20年測図の地形図に見る下長窪周辺

陸地測量部2万分の一地形図から切り取り、編集。ピンク色で示した部分が駅家想定地だが現代地図のように方形道路で囲まれていない。


正方形区画土地の地籍図

制作年代不明(明治期?)。完全方形ではないが、現在の姿に近い。 赤い線が道路、水色が水路である。


 

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