駿河国における東海道の変遷
古代東海道が駿河国から富士山の南を抜け相模国に至るルートは大まかに三遷している。
『みくりや物語(上)』で述べられている内容を参考に、駿河国東海道のコース変遷を推定した。
- 奈良時代~平安時代中期 愛鷹山北麓を足柄峠に向かうルート(十里木越え)
- 平安時代中期(長保元年(999年))~平安時代末期 愛鷹山南麓をまわり足柄峠に向かう
- 平安時代末期以降 愛鷹山の南、浮島沼と相模湾を隔てる海岸部を通り三島を経て箱根越え
※メイン画像は東海道コース変遷図:国土地理院20万分の1地形図(静岡)の一部を編集
東海道変遷の理由
東海道変遷の原因は、富士山の噴火である。
・天応元年(781)富士大噴火
十里木越えが困難となり愛鷹山南麓に変わる
・延暦19年(800年)、延暦20年(801年)、延暦21年(802年)噴火
この時、足柄路閉鎖、延暦21年(802年)に箱根路が開かれる。
・延暦22年(803年)東海道が足柄路に戻る
・長保元年(999年)大淵丸雄溶岩流(富士南麓)
平安初期までに3コースは既に開かれていたが、明確な時期を限って一つのルートに変遷したわけではない。駿河国の駅家配置を見れば、平安時代を通じて官道(駅路)は愛鷹山南麓を迂回するコースであったと思われるが、愛鷹山北麓の十里木(じゅうりぎ)越えで足柄峠に向かうルートも富士の活動状況が許せば使われていたと思われる。とはいえ、富士山の活動中には十里木越えは利用できず、また噴火規模が大きければ足柄峠自体が埋まって通行不能になるおそれがあった。山の険阻から言えば足柄峠がはるかに楽であったが、距離的には箱根路の方が圧倒的に短いので、延暦21年の足柄峠閉鎖に伴い、臨時に開削された箱根路が、おそらく国家事業ではなく地元の努力で、長い年月をかけ少しずつ整備され、平安時代後期に至り東海道の本道になったと考えられる。
更級日記の菅原家一行の通過した東海道
時期的に考えれば、愛鷹山南麓を迂回(根方道)して、元吉原(現在の冨士市)の富知六所浅間神社あたりに出たと考えられる。もっとも近い富士山の活動は999年であるから十里木越えも可能であったと思われるが、おそらく次の理由で避けた可能性が高い。
①十里木峠の標高は現在でも870mあり女子供には楽ではない(御殿場との標高差400m以上)
②季節的に西風が強い時期で寒さが厳しい。特に富士山と愛鷹山に挟まれた峠は突風が吹き抜けるので危険。
③水が得にくい
これは人の飲み水ではなく、馬の飲み水の話である。尾藤卓夫氏は『平安鎌倉古道』の中で(p.73)、かつて同僚であった獣医から聞いた話に言及している。
『馬は水なしでは10km歩けない。まして平安時代の馬では8kmが限度である』
西暦1020年頃の十里木周辺地域は火山灰や礫で埋まり水が得られる場所は非常に限られていたと思われる。