黄瀬川(木瀬川)宿は更級一行の通過ポイントか
更級一行は黄瀬川(木瀬川)宿の場所を通ったか
鎌倉時代東海道の宿駅で三島の西約3kmの黄瀬川に面する段丘上に位置する。宿の位置は尾藤卓男『平安鎌倉古道』によれば須藤氏の地籍図調査により、現在、美女鶴亀の墓がある潮音禅寺(沼津市大岡434)辺り一帯であると結論付けられているという。この宿は鎌倉以前に既に今に言う歓楽街であったらしく、『治承4年(1180)、山木兼隆の家来らが三島社の祭礼に参詣をかねて、黄瀬川宿に遊蕩に出かけた留守をねらい、源頼朝が兼隆を襲撃した点からも、当時既に交通上の要衝としてのみならず、この地方の歓楽の中心地であったらしい』(国史大辞典、吉川弘文館)。
画像は現代の黄瀬川。左岸の集落がかつての黄瀬川宿に比定されている。
『海道記』の時代(貞応2年1223年)の東海道の一般ルートは箱根路
海道記の作者は富士川を渡った後、浮島が原を経由し、ここで宿泊している。既に鎌倉時代には箱根路が東海道の官道であったのに、翌日、北上して足柄路をたどっている。
さて問題は、その200年前の平安中期に、この地点が東海道の通過地点であったかどうかということである。平安時代の東海道が海岸コースであればもちろんこの地点で宿営したことは想像に難くない。しかし当時は富士川渡河後、富士山、愛鷹山の裾を通る『根方道』が東海道の官道であったと言われている。これについては確たる文献がないが、平安中期に海岸コースをとったという文献もない。想像の域を出ないが平安末期から箱根路が徐々に整備され鎌倉前期までは箱根、足柄の両コースが並立して利用されたのではなかろうか。箱根路は時間はかからないが急峻、足柄路は距離は長くなるが緩やかという特徴がある。鎌倉時代前期は富士川を渡り海岸コースをたどってきた場合、足柄路の場合は、黄瀬川宿で宿泊し、箱根路の場合には三島で宿泊というように使い分けられ、箱根路が中心になってきた段階で黄瀬川宿は衰微したというシナリオが一番考えやすい。
結論として更級日記の時代に『根方道』をたどったとすれば黄瀬川宿の場所を経由する理由はない。
『海道記』が足柄路を選んだのは特別事例である
海道記の作者は、明らかにかなりの知識人である。漢文調のリズム感ある文体、膨大な和漢の典籍からの引用等、今でいえば大学教授クラスである。この人の旅の目的が何かははっきりと書かれていないが、おそらく承久の乱(1221年)に関わり鎌倉幕府に捕縛処刑された後鳥羽上皇側近の公卿であった知己、友人を追悼する旅かと想像される。菊川宿、黄瀬川宿に残された中納言藤原宗行卿の遺墨をしのび、処刑された富士の裾野の遇沢(藍沢)という野原を訪ね、涙していることから作者は彼の友人であったのかもしれない。つまり海道記の場合には足柄路をたどることが旅の目的であったと考えられる。
余談だが作者は黄瀬川宿から一日で足柄峠を越え関本まで行く予定だったらしい。ところが日が暮れそうになり、竹之下に泊まることになった。この予想外の遅延は藤原宗行卿の終焉の地が分からず探し回ったからではないだろうか。現代のように石碑とか案内板はなく、地元の人間に聞くしかないが、住民の姿も稀な一面の野原 である。そんなこんなで時間がかかったのだろう。
いずれにしても、『海道記』の記述は平安時代に黄瀬川宿を経由するべき地理的考察には関係ないと結論付けられる。
東海道、黄瀬川宿比定地にある海潮音寺
平安時代末期に既にこの地域は歓楽街であった。鶴亀姫に関する当時の伝説も残る。
前中納言藤原宗行卿の墓
前中納言藤原宗行卿は鎌倉時代、承久の乱の首謀者として捕縛され鎌倉に送られる途中ここ藍沢の地で斬首された。その墓の跡に現在、五卿藍沢神社がある。この場所(御殿場市新橋725)は今でこそJR御殿場駅からほど近い市街地の中にあるが、当時は足柄街道から、少し外れた寂しい野原の中にあった。この場所は牢場といわれ、護送中の囚人を宿泊させる施設だったらしい。宗行卿は、旅を続けることなくこの地で人生を終えることになった。