更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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現在の隅田川は『あすだ川』と呼ばれたことがあったか?

現在の隅田川は『あすだ川』と呼ばれたことがあったか?



 更級日記に「あすだ川」は伊勢物語にある「隅田川」のことであると書いてあるが、それは妥当であろうか?更級注釈書の中にも「あすだ川」を隅田川の別名としたものがあるが、根拠は明確でない。東京都の隅田川は平安初期の太政官符から現在まで一貫して音では「すみだがわ」と呼ばれている。本当に「あすだがわ」と呼ばれた事実があったのかが本項のテーマである。

  もちろん隅田川の名前は地域、時代により、いろいろで古くは「宮古川」「住田河」字も「澄」「墨」「角」などが当てられていた。江戸時代には吾妻橋から下流は時代劇でおなじみの「大川」、浅草近辺は「浅草川」、「隅田川」などと呼ばれていた。

 鎌倉時代中期に書かれた『とはずがたり』には主人公の二条が実際に隅田川を訪れ、それが地元の人には「須田川」と呼ばれていることを伝えている。これに接頭語「あ」がつけば「あすだがわ」となる。これが「隅田川」=「あすだ川」説の根拠と思われるが、「すだがわ」ならともかく現地の人が「あすだ川」と呼んでいた証拠にはならない。

  話は飛ぶが伊勢物語の主人公、在原業平は本当に関東に下向したのかという問題があった。以前は完全な虚構であるという説が有力であったらしいが、現在は元になる事実はあったとする説が有力である。それについては角田文衛博士が詳細に考証されているので(東京堂出版:王朝の映像p.208『業平の東下り』)省くが、そこに登場する「すみだ河」が現在の東京都の隅田川であることは疑いを入れない。

 ところで、更級日記に、『野山、芦荻の中を分くるよりほかのことなくて、武藏と相摸との中にゐてあすだ河といふ。在五中将の「いざこと問はむ」とよみけるわたりなり。中将の集にはすみだ河とあり。舟にて渡りぬれば、相摸の國になりぬ。』と注釈めいた言葉があるのは何故だろう?わざわざ、「あすだ河」は「隅田川」のことだと注釈を入れているのは、当時でもそれが都人の間で常識でなかったからだろう。この注釈に関して、後世、書写の段階で挿入されたとする説もあるが、それはない。定家書写になる御物本にも挿入でなく一連の文として何の乱れもなく書かれているからである。もし挿入があったとしたら、犯人は定家の前に書写した人に限られるが、平安末期、鎌倉初頭の人はまだ研究者ではなく一読者であり、そんなことをすることは考えられはない。定家自身の注釈は朱で書き込まれているので、定家でないことは明らか。つまり、この件に関しては更級作者自身がそう書いたと判断される。

おそらく更級作者は自分で書いた当時のメモに、「あすだ川」という地名を見ても記憶がはっきりせず、当時流布していた歌枕に登場する「業平の隅田川」だと錯覚してしまったのだろう。この経緯から「あすだ河」は相武国境付近の別の川に求める以外にない。『あすだ川』と『隅田川』は全く別な川であるというのが本項の結論である。

想像であるが、横浜市大岡川は古く「あすだ川」と呼ばれていたとする説がある。当時大岡川は河口は東京湾に注ぎ大きく開口していたので結構大きな川に見えたはずである。後年、江戸時代に洲干し湊と呼ばれていた浅い港は干拓されて現在はないが、平安時代には弘明寺の港として有効に機能していたと思われる。この大きな川「あすだ川」をメモに残していたということは十分考えられる。ただこの川は渡る必要がなく川沿いにのぼり尾根に上るだけである。

※「すみだ」川は容易に「すだ」川に転訛する。「すみだ」→「すむだ」→「すんだ」→「すだ」。現在、東京都千代田区に神田須田町がある。それは当時の名残であろう。でも、すだ川に「あ」が着いて「あすだ」川にはならないと思う。


 

画像は白髭橋から隅田川上流を見る。ここは江戸時代に橋場の渡しがあった位置。平安時代には右岸奥の隅田川神社(水神社)から左岸手前の石浜神社を結ぶ線が渡河コースか。

 

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