更級日記の東海道の旅をもとに平安時代の古地形や文献で平安時代日本を再現
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作者の乳母がお産をして滞在していた仮屋はどのあたりか?

平安時代のまつさとの集落の位置は限定される



 作者は兄に連れられて乳母を訪れているので渡し場からすぐ近い場所である。市川の明治13年測量の地図(迅速図)を見ると集落は渡し場の付近と千葉街道(現在の国道14号)沿いにあるだけである。つまり市川砂洲の両側(北、南)は水田であった。南側の水田は江戸時代に開発されたものだから、平安時代には海のある南側は湿地帯で人が住むどころか一面の葦のヶ原であった。この点から平安時代に集落があったとすれば、やはり渡し場と国府台(下総国府のある台地)の間の松原内の比較的狭い地域(現在の市川2~3丁目)に限定される。正確な場所は特定すべくもないが、とりあえず、市川市真間郵便局の辺りと考えておく。



 蛇足だが、原文の『いと恋しければ、行かまほしく思ふに、せおとなる人、いだきてゐて行きたり』に関し解釈を加えたい。このまま読めば「兄がだっこして(乳母のところに)連れて行った」ということだが、これはおかしい。更級作者は当時、現代でいえば小学6年生か中学1年生である。一番おてんばな時期の女の子が病気でもないのに、何で兄さんに抱っこされて行くのだろう。もしそうだとすると、乳母が滞在していた場所は渡し場から50m以内くらいに限定される。兄の定義が屈強な坂東武士の息子なら、それも考えられなくもないが、公家の息子がそんなことをするとは思えない。御物本では確かに『いたきて』となっているが、やはり、ここは誤写を考えざるを得ない(定家が人に写させたとき間違えたか?)。松太夫は『いできて、率(ゐ)て行きたり』の誤写と考える。つまり、「兄は父と共に川岸での荷物の運搬を見に行っていたが、その川岸の人群れから出てきて、(私を)連れて行った」と解釈するのが無理がない。

 

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