平安時代における武蔵野台地の地理的景観は?
平安時代には武蔵野台地は未開発の荒野であった
更級日記には『蘆萩のみ高く生ひて、馬に乗りて弓もたる末見えぬまで、高く生い茂りて、中を分け行くに』というように木が生えぬ、一面、草ぼうぼうの野原であった。また鎌倉時代の『問わず語り』にも『野の中をはるばると分け行くに、萩・女郎花(をみなへし)・萩(をぎ)・薄(すすき)よりほかは、またまじる物もなく、これが高さは馬にのりたる男の見えぬ程なれば、推し量るべし。三日にや分け行けども、尽きもせず。』つまり三百年経っても、景観の変化は見られない。
実はこの景観は戦国時代が終わるまで続き、江戸時代になってはじめて、森や林のある豊かな耕地に変貌したといわれる。その原因は、この台地の表層は関東ローム層といわれる火山灰起源の土であることにある。色は茶色で粘土のように見えるが、実に水はけがよい。このような土地では雨が降っても、すぐ地下に吸い込まれ、せいぜい草しか生きることが出来ない。ではこの地方ではどういう場所に集落が出来たかというと、台地の周囲や、谷の部分である。そこには台地に降った雨が地下水となっていたものが、泉となって湧き出している。そこでは水田が開かれ、規模は小さくても意外と収穫の良い美田となっていた。しかし関東地方のかなりの面積は原野のまま放置され、開発されることがなかった。
江戸時代になり巨大な消費都市、江戸が出現し野菜を始め食料生産の要求が強まると、この台地を畑作の耕地とするべく、灌漑水路の整備が行われ、また肥料として人糞(下肥)が江戸から持ち込まれ富栄養化が図られた。作物が作られるようになると、その残滓は土にすき込まれ土中の腐植となる。腐植は土中微生物の住処となり、隙間に水を含むことで、土の保水性が増し、木本が育つようになる。そして森や林が形成される。そこには鳥が住むようになり、地域一帯は、リン酸を含むその糞で更に富栄養化される。以上のような好循環で二百年をかけて豊かな農地に変わったのである。戦後はその先祖の苦労を台無しにするような乱開発が行われ、いずれ元の原野に戻ってしまうことが予想される。武蔵野台地は歴史が教えるように、人為が入らねば、耕地とはなりえない脆弱な土地である。
図版:『武蔵野』、菱田春草(日本画家1874-1911)1898作、武蔵野の茫々たる雰囲気を伝える優れた作品である。富山県立近代美術館蔵。